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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃1┃7┃

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          (名義)保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会

 

 高知新聞7.17号に「板垣退助の墓所に標柱 命日に合わせ顕彰会が設置」という記事

が掲載されておりました。音次郎会では総会が終わり、史跡への案内板設置について具

体的に取り組もうと考えていた時でした。8月定例会でその作戦会議が終わってから、

又もやの事です。

 高知新聞9.15号に「植木枝盛生誕地の石碑移設、年内にも案内板設置」という記事が

掲載されておりました。他の地元の偉人顕彰会も「頑張っているのだなぁ」と、思わさ

れました。

 音次郎会では年内に1つは、不案内の竹島に点在する遺跡のうち「辞世の句碑」につ

いて先行的に、案内板設置と石碑の移転を計画しております。さらに具体的に討議をし

たいと思いますので、次回の会合にご出席の上、お知恵を賜れば幸いです。

 

 保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会(通称:音次郎会)から会員の皆さまに会報(メール

マガジン)をお届けします。

 

◆◇INDEX◆◇

 

【1】音次郎の生写真が発見される

【2】音次郎関連6書籍の電子化が完了する

【3】10月定例会の御案内

 

――――――――――――――――◆◇◆◇

 

【1】音次郎の生写真が発見される

 

 このほど四万十市竹島の片山慧宅から音次郎の生写真が発見されました。見つかった

写真は音次郎が1928年(昭和3)11月に藍綬褒章を受領した時の記念写真と、1941年(昭

和16)1月16日に音次郎生家に大久保利武筆の記念碑が建立された時の集合写真です。

 「聖愛一路」によれば、藍綬褒章受領を記念として鎌倉ハリス記念幼稚園にて祝賀会

を開いたのですが、音次郎の着ていたフロックコートは袖が短く丈も短かったとの事。

今回発見された音次郎の生写真は写真館で撮影したようなポートレートで「鎌倉保育園

 創立百周年記念誌」にも掲載されていますが、記念撮影をするために貸衣装を身にま

とったものと思われます。音次郎の生写真の多くは散逸しており、この藍綬褒章の記念

撮影が生写真として見つかったのは大変貴重です。

 また、生家での集合写真も今回初めて見つかった生写真です。これは1940年に当時の

鎌倉保育園長である佐竹昇・伸夫妻が音次郎の遺骨を竹島墓地に分骨するため中村に来

られた時の写真です。佐竹伸は音次郎の次女です。竹島墓地への分骨は音次郎が生前に

自ら墓石も手配して遺言していた事です。この時、生家の庭にも大久保利武(大久保利

通の三男)が筆を執った記念碑が建立されました。その石碑の前で佐竹昇夫妻を中心に

30名ほどで記念撮影をした写真です。写真には数名の子供の姿もありましたので音次郎

の精神は次世代に受け継がれているらしく見えました。

 この生写真が片山宅から見つかった理由ですが、音次郎が困っている人々を救うため

に奔走していた頃、片山家は造り酒屋で潤っていました。このため音次郎に対して片山

家は多くの支援をしていたようです。

 この片山家は、音次郎の生家である宮村家と同じ竹島の中で近所であり姻戚関係にあ

りました。宮村家の4男として産まれた音次郎が紺屋町の佐竹染め物店の養子に行くよ

うになった理由も、この片山家と養父の家が姻戚関係であったことに関わりがあるよう

です。

 音次郎が佐竹姓を名乗ることになった紺屋町佐竹家は、現在のマルサ醤油の佐竹家の

分家だと考えられます。残念ながら郷土史家の上岡正五郎氏の「佐竹家の歴史」やほか

の著書を調べても、音次郎の義父・友七が現在のどの佐竹家と繋がっているのかは解明

できていません。しかし友七の妻・馬(音次郎の義母)は竹島の安田家出身であり、片

山家と安田家も姻戚関係がありました。また、片山家と音次郎の実家である宮村家は少

なくても3代続けて姻戚関係にありますので、音次郎の事を自分の身内のような気持ち

で応援して下さったのでしょう。

 音次郎が存命中、最後の手紙を書いていた相手が片山正好氏であり、今回、生写真が

発見された家です。絶筆となった手紙では音次郎が片山氏に完成したばかりの「聖愛一

路」を同封して送ろうとしていた事を読み取ることができます。残念ながらこの手紙は

片山氏に送られることはありませんでした。しかし音次郎が藍綬褒章受章の記念写真を

送ったり、没後、竹島に記念碑が建立された時も、娘婿の昇氏から片山家にその集合写

真が送られたり、交流は続いていました。

 保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会の会員であった片山慧さんは今年7月に逝去されまし

たが、郷土の偉人・佐竹音次郎の1つの歴史を紐解いて下さいました。今回の発見は慧

さんの甥である浦田前会長が遺品整理をされていたからこそ叶いました。浦田前会長の

ご尽力と、写真を提供して下さった遺族の方にも心から感謝申し上げます。

 

――――――――――――――――◆◇◆◇

 

【2】音次郎関連6書籍の電子化が完了する

 

 音次郎会では高知県立・高知城歴史博物館さんの全面協力により、縁者より寄贈され

た毛筆の音次郎日誌(日誌の原本)を電子化しております。撮影された約1万枚にも及

ぶ画像は3月11日に城博さんから音次郎会に納入されました。現在、事務局により撮影さ

れた画像を丹念に確認・修正する作業を行っており、本日現在85%が完了しております。

 

 また、寄贈された貴重な史料類の目録作りに関しては特定非営利活動法人 四万十市シ

ニアネットワーク 代表 川山芳輝氏のご尽力により電子化が進んでおります。こちらに

つきましても貴重な史料を受け取ってからすでに3年以上が経過しましたが、城博さん

との作業と平行して進め、受け取った史料の全品目リストを1日も早く完成させたい

と、取り組んでおります。

 

 一方、過去に出版された冊子体についても今後の研究の便宜を図り電子化に取り組む

ことになりました。こちらは現代社会のペーパーレスの潮流の中で、電子化作業を請け

負う多くの業者がございます。その中から会談の結果、信頼が置ける東京の業者と電子

取引の上で、作業を委託しました。9月14日に電子化されたデータが納入されました。

 

 電子化の利点は、パソコンなど電子媒体上で閲覧・講読することが可能で、冊子体の

ように厚みや重さがなく、可搬性に優れています。また、文字の大きさも電子媒体の液

晶画面が許す範囲で自在に拡大・縮小が可能であり、マクロ的かつミクロ的に読解する

ことができるようになります。さらに、電子的に生成された活字データも併録されてお

りますので、それを手がかりに検索することも可能になります。

 

 電子化されたデータはPDF(Portable Document Format)という形式で納入されまし

た。しばらく事務局にて重大な読み取りミスが存在していないかを確認の上、今後、著

作権の事をクリアにした上で音次郎研究をされる方とデータを共有できればと考えてお

ります。

 

 参考に、今回電子化をおこなった音次郎に関する図書は次の6冊です。

 

日誌 佐竹音次郎   (1976 社会福祉法人鎌倉保育園発行)

新版 聖愛一路   (2003 株式会社文芸社発行)

其日乃た免に(その日の為に)(1974 佐竹昇記念刊行委員会発行)

愛に生きて   (1986 佐竹伸著 鎌倉保育園発行)

佐竹音次郎物語   (1979 乾綾雄著 育英出版社発行)

愛の使徒 佐竹音次郎   (1981 乾綾雄著 育英出版社発行)

 

 

――――――――――――――――◆◇◆◇

 

【3】10月定例会の御案内

 

 高知城歴史博物館との史料整理作業のごあんないです。

 城博さんの御協力により第5回目の音次郎史料整理作業を行います。

 現在、4回連続で「木箱」の内容物検査に取り組んでおります。この中には音次郎が

受けた政府関係の表彰の類が多く含まれておりますが、前回はそればかりではなく、昭

和初期に鎌倉保育園が児童の生活と実益を兼ねて取り組んでいた養豚に関して、神奈川

県の品評会で受賞した記録も発見されました。これは当時の鎌倉保育園の運営の様子が

偲ばれるものでした。

 また、鎌倉保育園がおこなった行事に関する会計記録の書類がありました。昭和初

期、領収書は事前印刷された用紙に手書きや、全体的に手書きであることが多かったの

ですが、その中に1枚、三越百貨店のレシートが存在しました。領収書ではなくレシー

トです。つまり当時、すでに三越百貨店ではレジが導入されていて、領収書の代わりに

レシートが機械で印刷されて出力され、顧客に提供されていました。これには驚きまし

た。

 このように今回も貴重な古文書に直接触れる事ができる機会です。

 人手が必要ですので御協力下さい。

 当日、現場にも衛生用品は揃えております。感染予防対策を充分に講じた上で実施し

たいと思います。

 

日時:2021年10月12日(火) 11:00-16:00(部分参加可能)

場所:音次郎会事務局(下田の若草園 西棟1階)電話 0880-33-0247

 

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 現在の会員数 104 名 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

2021.10.1 Fri

 

  日本で初めて「保育」という言葉を生み出した「佐竹音次郎」に関心のある方、

 入会希望者のご紹介など、お気軽にご一報ください。事務局から案内をお送りしま

 す。現在、鎌倉子孫の御協力により鎌倉一円の会員が増えております。地元で興味

 関心がある方があれば、ぜひ事務局に御紹介ください。

 

 

  ┌──────────────┐

  │保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会│ 会長 中平菊美

  └──────────────┘

 各種お問い合わせは →→→ 四万十市下田2211(若草園内)

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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃1┃7┃

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【読み物シリーズ 4】

 

日本一熱い男・音次郎の日本一暑い日

 

作:瀬戸雅弘

 

 音次郎の命日は8月16日です。日本では「お盆」の時季になりますがキリスト教で

はその概念がありませんので音次郎の命日がこの日になったのは摂理でしょう。

 8月16日という日にちは不思議な巡り合わせの日で、少年音次郎が愛した故郷竹島

の松がその前日に不審火で焼けた日でした。辞世の句に描いた松と音次郎は運命共同体

でした。この日は暦の上では立秋も過ぎていますが日本では残暑厳しい時季でもありま

す。

 暑さの話では8月16日といえば日本の最高気温記録を熊谷と多治見で74年ぶりに更

新した日です。音次郎の地元四万十市でも日本最高気温記録を2013年から2018年まで保

持しました。また2020年8月13日~15日は3日連続で国内最高気温を四万十市で観測しま

した。熱い男の故郷も暑いのです。

 ちなみに74年間も国内最高気温だった場所は意外にも山形で、観測されたのは1933年

(昭和8)7月25日のことです。音次郎がまだ保育をしていた時代です!

 音次郎は預かった子供も我が子と同様に愛情を注いで育てましたが、日本で長年破ら

れることがなかった暑い夏に、音次郎は子供たちとどう過ごしていたでしょうか? 音

次郎日誌から手掛かりを見てみましょう。

 

①暑気、甚シ

 

 音次郎日誌20 昭和8年(1933)に、この様な記述がありました。

「七月七日 金・晴 暑気新京辺・甚シ 在新京」

 音次郎日誌は通常、月日、曜日、天気が1行目に、2行目にその日の滞在地が記さ

れ、それから日記が綴られます。この日の書き方は異例で、天気の後「暑気甚(はなは

だ)シ」と付け加えられていました。

 新京とは満州の首都のことで、このころ音次郎は満州の旅順支部に滞在していました

ので出張をした新京周辺が大変暑かったので、思わずその事を書き始めてしまったので

しょう。この1933年7月という時が、日本で長年破られることがなかった最高気温を記録

することになった月なのです。

 

②日誌の中の新聞切り抜き

 

 音次郎日誌の中には新聞切り抜きをはじめ添付文書類が数多く挿入されています。そ

の大半が新聞記事です。音次郎が感じた暑さに興味を持った発端は、ある新聞切り抜き

が目に留まったことでした。日誌の中に1917年(大正6)7月2日、3日、21日の全国の気

温コラムだけがスクラップされていました。これを見た時に「昔の日本も暑かったのだ

な」と感じました。

 また1933年7月9日の日誌には次のようなスクラップも存在します。

 炎天下に曝される機会の多い夏は日射病で卒倒する者が相当あります。……(中略)

……なお脳貧血は衰弱している人、睡眠不足、過労、過度の心配、運動、試験勉強など

の場合に起こるものです。これは別に季節物ではありませんが、とかく夏は暑気のため

に過労し、身体も弱りますので大へん多くなります。脳貧血を起こしましたら静かに寝

ませ、頭を低くし……(後略)(満州日報? 1933.7.11? 第9782号)

 音次郎も「暑さ」を意識していたのだなと思いました。

 

③音次郎の養育方針

 

 音次郎が旅順支部を設立した時の要覧が現存していますので、それを引用しながら音

次郎の子育てに対する腹づもりを見てみましょう。

▲収容者処遇法

 収容者は親子兄弟の処遇をなし純然たる家族の一員とし悉(ことごと)く基督教の

信仰により教導す。毎朝礼拝を守り冷水浴及深呼吸等の強壮法を行ひ以て心身の修養を

なす……(後略)

 心身共に健康に心がけることが謳われています。この後につづく「▲一日の生活」で

は子供たちの日常生活が紹介されていますが、毎日入浴をさせることも書かれていま

す。近年でさえ児童養護施設では入浴介助をする職員の労力を省く為に子供の入浴が隔

日である施設もあります。それを考えると音次郎の取り組みは100年も先駆的でした。

 要覧には取り立てて養育方針を記載してはいませんが、冒頭の「純然たる家族の一員

とし」の部分にすべての音次郎の愛情が込められているように感じます。

▲沿革

(前略)……不良児の感化方も依託を受け此仕事も兼る事となり、是等幼少年の増

加するに従ひ保育衛生上甚数々不便を感じ大正六年関東都督府よりの補助金、恩賜財団

よりの下附金、満鉄会社及大連銭鈔公司よりの寄附金等を以て現所在の地に支部家屋を

建築……(後略)

 ここには「保育衛生上甚(はなはだ)数々不便を感じ」との言葉があることから、音次

郎にとっては子供たちが健やかに育つ生活環境を常に改善することは「言わずもがな」

だったのでしょう。

 現存する音次郎の名刺には、肩書きの部分に「財団法人鎌倉保育園理事」、役職名の

部分には「醫士(いし)」と記されていました。医学的見地からも子供たちの健全育成を

常に考えていたことは想像に難くないでしょう。医者であった音次郎は保育へと路線変

更しました。

 

④気温測定の歴史

 

 日本では1875年(明治8)に気象庁の前身東京気象台が気象観測を開始します。英国人

が英国から機器を取り寄せて始めました。1884年(明治17)から天気予報が毎日発表さ

れるようになり、当時の新聞は紙面が少なかったので欄外に臨機応変に掲載されまし

た。このコラムが1917年の音次郎日誌にスクラップされていました。

 日本で正式に気温の単位に摂氏を採用するようになったのは1882年という記録が気象

庁に残されています。はじめは英国の機器を使ったので気温は華氏でした。単位を世界

的に考えると、1875年にメートル条約が締結され、日本は1885年に加入します。しかし、

21世紀の現在でも建築現場では尺貫法(特に長さは1.8m単位を使い続けていますね)が

残っているように、戦前の日本では気温の単位も実社会では一般的にずっと華氏で表現

していました。ちなみに、音次郎の著書に『結核征伐』(1902年8月26日発行)がありま

すが医師・佐竹音次郎は本文中では温度の記載に関してはすべて摂氏で統一していまし

た。これには「さすが」と思わされます。

 1933年7月26日の山形新聞は「歴史的のあつさ 華氏105度全国一の高温 測候所でも

驚く」と、綴っていました。記事中には正確に「華氏105.5度」とあり、換算すると摂氏

40.8度になります。山形は地形の影響でフェーン現象が起きやすく、この日の最高気温

はまぐれで発生したのではなく、1962年8月3日に38.8℃、1978年8月2日に38.4℃、1994年

8月13日にも38.9℃を記録しています。

 旅順も山形と同じ北緯38度に位置します。音次郎が「暑さ甚だし」と言った1933年の

夏は全世界的にも暑かったでしょう。

 

⑤おじいちゃんとしての音次郎

 

 日本で最高気温を観測し、翌日山形新聞で報じられた日の日誌は次の通りです。

七月廿六(26)日 水 晴 <在旅順 余の常>

{夏期休暇中の小学生の行事を、本日より}男子は朝起床と午後四時の二回冷浴を

為し、其間に復習あり、前後各一時間づつ除草作業を為す事とす。但し本日は午後の作

業時間を釣魚に遊ぶ。祖父も釣竿を贖うて御供す。六十年目程にして<初めて>釣を垂

れて遊ぶ事をす。

七月廿七(27)日 晴 <在旅順 余の常>

  <昨日と変り祖父も冷浴する機会を恵まれて男女の児童と共に幸を得>

註 <>で囲まれた文字は日誌(新版)には記載がなかった語句。

  {}で囲まれた文字は日誌(原本)には記載がなかった語句。

 

 音次郎の紋付き羽織の写真を肖像としてよく用いますので、それが音次郎の印象とな

っています。ともすれば堅苦しく、また、内務省の会議において先駆者であった石井十

次に真っ向から反論した事、妻を厳しく夜中まで教育した事などから、音次郎には「怖

そう」な印象さえあります。しかし、人生で初めて釣りに興じ、その翌日は子供たちと

共に泳ぐ69歳の音次郎は好々爺でした。

 ひたむきに万人の父となるべく一心で走ってきた音次郎の最晩年に、園庭には辞世の

句碑が完成し、そこで幼子と遊ぶ音次郎の姿が映っている写真があります。そこには、

穏やかに笑う音次郎の顔を見ることができます。その表情は孫と接する「おじいちゃ

ん」そのものです。

 「孤児」ではなく「保育」だと主張して切り開いた児童福祉の道です。音次郎が保育

に懸けた情熱は誰よりも熱いものでした。その音次郎は日本一暑かった日に、子供たち

といっしょに釣り竿を垂れ、いっしょに泳いでいました。それは、自分の子供を愛する

世の親のそれと同じです。しかし音次郎は施設に居る子供に、分け隔てなく同じ愛情を

注ぎました。それが「保育の父・佐竹音次郎」なのです。

 

左上の画像は「音次郎日誌20 昭和8年(1933)」の引用。7月7日 金・晴 暑気新京辺甚し 在新京……。上中央と右は音次郎日誌6 大正6年(1917)に切り抜かれていた新聞記事で「●最高気温」と書かれている。表示は華氏で、百度近い個所もある。1917.7.21の各地気温を摂氏換算すると、大阪 31.1℃、京都 34.7℃、神戸 34.5℃、名古屋 33.6℃、和歌山 30.7℃、高松 31.1℃、岡山 33.0℃、福岡 31.4℃となる。中頃には音次郎が和服を着て床の間の前に座っている写真と、鎌倉保育園の園庭で子供と遊んでいる音次郎の写真が並んでいる。下段には旅順の地図がある。南側が大きな入江になっており、『聖愛一路』に登場する田家屯、方家屯、旭川町の位置が地図上に示されている。地図は南満州鉄道株式会社パンフレット「旅順」より引用した。