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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃1┃9┃
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┃別┃冊┃
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【読み物シリーズ 6】
竹島神社は天満宮?
作:中平菊美
佐竹音次郎の著書と言ってもよさそうな「聖愛一路」の中に、音次郎17歳の時、
「天満宮に丑の刻詣りをした。」とある。また、「夢の碑」を天満宮に置いたとも、音
次郎が昭和14年に最後の墓参にと妻くまと連れだって帰郷していた時のことを書いた
乾 綾雄氏の文章の中に「音次郎から天満宮に奉納してほしいと2つの巻物(菅公の画
像と辞世の歌)を預かった。」ともある。
その天満宮は竹島神社のことであることは間違いなく、音次郎は竹島神社を天満宮と
呼んでいたことが紹介されている。
この記述を知った竹島出身者で、竹島神社が天満宮と呼ばれることを耳にしたことが
なかった方が疑問に思い調べた結果、「地元にはそのような記録が見当たらない。」と
いうことで、現在まで解明したい課題の一つとなってきた。そこで市民図書館で調べると、
次のようなことがわかった。
『鎮守の森の今』(竹内荘市著)によると、「竹島神社は岩越吾(五)兵衛が勧請、
元は天神宮と称した」とある。(補足:岩越吾兵衛は500年ほど前の岩越(竹島)の城主)
明治時代になり神社の名称変更が盛んに行われ、竹島神社と呼ばれるようになったの
だろうが、それ以前は天神宮と呼ばれていたということであろう。
また、辞典『大言海』(坂本嘉治馬の冨山房出版)によると、「天神宮は天満宮<天
満天神もしくは天満大自在天神が正式名称でその略称>でもあり、菅原道真を祀ってお
り、菅神宮と言われることもある」とある。
以上から考えると、音次郎が天満宮と書いているのは思い違いでなく、音次郎が子ど
もの頃には、天神宮とも天満宮とも呼ばれていたのが事実だと思われる。
参考までに、天満宮の由来を簡単におさらいしておこう。
時は、今から1300年余前の平安時代。京都に菅原道真という有能な人物がいて、右大
臣という重要な役職についていた。ある時、心当たりの無い罪に問われ、九州に左遷
(一種の追放)させられ、悲しみに明け暮れる中で亡くなる。程無く、御所に雷が落ち、
道真の左遷に関わったと思われる者たちが雷に打たれて亡くなる。それを人々は「菅原
道真が雷神になって仕返しをしたのだ。」と恐れる。更に、全国各地で地震や大雨、病
気や飢きんなどの災害が続き、これらも道真のたたりであると噂され恐れられるように
なる。
そこで、道真のたたりをしずめると共に、村の守り神になってもらいたいとの願いか
ら建てられたのが天満宮だそうだ。京都の北野天満宮が最初のもので、現在も全国に約
12,000社ほどあるそうである。
(注)竹島神社は近年、その神様は尾根続きにある岩越四所神社に合祀され、廃社と
なっており、鳥居や境内に至る石段、夢の碑が名残をとどめている。岩越四所神社は岩
越吾兵衛と武芸に秀でた4人の家来を祀ったものだそうである。