┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓
┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
┣━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━┫
┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃2┃
┗━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━╋━╋━╋━┫
┃別┃冊┃2┃
┗━┻━┻━┛
【読み物シリーズ 10】
音次郎、豚を飼う
作:瀬戸雅弘
東京オリンピック2020(実際には2021年開催)には日本の文化もまだまだ世界標準
に遠い事を感じさせられました。コロナ禍で話題も奪われましたが禁煙の事、タブー食材
の事。改めてわが国が単一民族単一国家である事を思います。しかし厳密には日本には琉
球とアイヌの少数民族があり、中規模としては大阪弁を使う民族も居ます。わが国でもさ
らに海外だけではなく日本国内でも文化の違いを受け入れ合う素地づくりが大切です。
音次郎史料整理をする中で鎌倉保育園が神奈川県から養豚で表彰されていた事を知りま
した。品評会で優秀だったのです。そこで音次郎が豚を飼った事を調べてみれば興味深い
繋がりが見えてきました。音次郎と養豚。そして鎌倉保育園。事実とそれを結ぶ夢の物語
に、しばしお付き合いください。
1 日本の養豚の歴史
江戸時代末期まで国内の養豚は九州と沖縄でのみ記録されています。農耕に利用価値が
あった牛馬と比べて肉食でしか用途がない豚は、仏教のタブー食(不殺生戒)と相まって
定着しませんでした。明治時代になって洋食文化が入り、畜産として統計にはじめて現れ
たのは1887(M20)年の事です。
参考に世界的には豚の飼育数が多いのは中国(4.6億頭)、アメリカ(6千万頭)、ブラ
ジル(3千万頭)の順で、日本は豚コレラの発症により近年減少して800万頭程度になって
います。どうりで近頃スーパーでパックで売られている豚肉は外国製が増えている訳です。
2 種さんの仕事
音次郎の自伝的伝記『聖愛一路』冒頭「街の人気者」の段落は讃美歌から始まります。
♪つとめいそしめ はなの上の
きらめくつゆの きえぬまに
ときすぎやすく くれはちかし
あさ日てるまに いそしめよ (旧讃美歌366番/1954年版では368番)
悠々とした歌声の主は鎌倉保育園に勤める種さん(タネさん)です。種さんは鎌倉の町
並みを巡って鎌倉保育園で飼育している豚の餌を集めていました。荷車に臭気がツンと鼻
をつく4斗樽(約72L)を載せて、暑い日も寒い日も、朝と夕、どこの家でも始末に困る
残飯を集める、誰もが嫌がるこの仕事を景気よく讃美歌を歌いながらしていました。
種さんは幼い頃脳膜炎を病んだために知的障害者となりました。当時、鎌倉保育園裏手
の畑では12~3頭の豚が居ました。聖愛一路は同様に鎌倉保育園に20~35年も住んでいる
敏さん、太郎さん、健二さんが手分けして豚舎の仕事をこなしていたと綴っています。
3 鎌倉保育園での養豚の歴史
音次郎は1913(T2)年、旅順支部を設立します。その様子は聖愛一路の著述に譲ります
が、ここで音次郎は初めて養豚に直面したと見られます。『日誌』(鎌倉保育園発行)の
618ページに難波鹿太郎の略歴がこう書かれています。「関東軍除隊後旅順で養豚をはじ
め、失敗して家族ぐるみ旅順支部に入り、養豚をしながら、果樹栽培を習い農園主任とな
り、のち大連支部新生学園長(理事補)となる」。
養豚は中国が一番盛んである事を前述しましたが、その中国で難波氏が養豚をしていた
のです。史料の『旅順支部要覧』には支部開設当初から豚12匹を飼育していたとの事です。
その後、養豚は鎌倉の本園でも取り組まれます。種さんの仕事のように、明治中期以降
都市部では残飯養豚、農村では零細副業飼育として国内でも養豚が一般化します。保育園
の養豚は種さんらの働きのお陰で優秀だったようで神奈川県から表彰を受けています。史
料から2枚の表彰状が見つかりました。
① 昭和6年3月18日 第2回養豚品評会四等賞 神奈川県鎌倉郡畜産組合長
② 昭和7年4月4日 第3回養豚品評会四等(肉豚ヨークシヤ種牡)鎌倉郡畜産組合長
4 現在の鎌倉での養豚
鎌倉保育園の後進施設である鎌倉児童ホームでは養豚は継続されていませんが、現在の
鎌倉での養豚はどうなっているだろうかと調べてみました。それは、この小さな町・中村
でも豚舎や食肉加工場は臭いにより立地の困難さが時に議論となっているからです。
すると、2011(H23)年鎌倉市優良農業者等表彰者の記事を見つけました。この方は表彰
当時、鎌倉では唯一の養豚業を営んでおられ、朝5時から残飯集めにトラックを運転して
市内や周辺地区の企業・商店を回っておられるのです。それで焼却ゴミの減量に貢献した
との理由で市長から表彰をされたのです。鎌倉にはまさに「21世紀の種さん」がいらっ
しゃる事がわかりました。
さらに驚くべき発見がありました。鎌倉では2020年頃からブランド肉である「鎌倉海藻
ポーク」が販売され始めました。これは名前の通り豚の飼料に海藻を混ぜて飼育して肉質
や栄養価を向上させた豚肉です。海藻にはミネラル分が豊富に含まれていますので想像し
ただけでもおいしい豚肉ができそうです。四国でもオリーブ油の絞り滓を魚の養殖に使う
など工夫した食品製造があり、全国的にも様々な取組があるでしょう。鎌倉ポークで私が
着目したのはその飼料となる海藻の入手方法です。
鎌倉の湘南海岸は昔から別荘地・観光地で、現在ではサザンオールスターズの歌のヒッ
トと共に一大名所となりました。ところが公益財団法人かながわ海岸美化財団に拠れば、
海岸に打ち寄せられる海藻がゴミ処理問題となって頭を抱えていたと言います。2000年前
後(H5~15)、財団は年間に約2,000t~6,000tもの海藻を処理していたとの事です。鎌
倉市ホームページで調べたところ鎌倉市の粗大ごみ処分手数料は1点につき600円です。
仮に平均で3,000tの海藻を粗大ゴミとして1袋100kg入れたならば3万袋、金額にして
1,800万円の処分料が毎年必要になります。
この海藻を何かに役立てられないだろうかと考え始めたところ鎌倉海藻ポークが生み出
されたのです。廃棄処分されていた海藻をハンディキャップを抱えている方々に収穫・乾
燥・粉砕してもらい、豚肉の飼料として育てたのです。
古都鎌倉はグルメツアーとしてもパッケージされていますが、ここに環境問題の解決と
福祉の力と観光誘致が巧く繋がっているのです。
5 中村の下田海岸に打ち寄せられる海藻
日誌複製版作成作業をしながらそんな話をしていましたところ、下田の浜にも海藻が打
ち上げられる話が出ました。この海藻はカジメと言い、加工すれば昆布と同じように佃煮
の材料にも出来るそうです。その端物を、家庭菜園をしている所に堆肥のように撒いたと
ころ、野菜がおいしくなったそうです。現在、鎌倉では海藻飼料は畜産だけではなく、野
菜作りにも転用されています。海藻を堆肥として活用するのは合理的だと知りました。
6 夢~養豚は音次郎の功績?
保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会では音次郎の足跡を顕彰したい気持ちがありますので、
この2例の鎌倉の養豚を見た時に、「今、鎌倉に養豚があるのは音次郎のお陰だ」と言い
たい。なぜなら音次郎が青年時代まで下田竹島で育ち、そして故郷と同じ景色を鎌倉に見
て定住地として選んだ事を合わせ考えますに、鎌倉保育園の養豚が表彰されたのは、もし
かして今から100年も前に音次郎が先に鎌倉海藻ポークを生み出していたのではないか?
そんな推理をしたくなるのです。しかし、鎌倉保育園での養豚は途絶えていますし、鎌倉
海藻ポークはつい最近の出来事です。現在の鎌倉の養豚が音次郎の功績とは言いにくいと
ころです。
それでも、鎌倉保育園で養豚をして表彰されたのは事実ですし、音次郎がカジメの存在
を知っていただろう事も濃厚ですし、養豚に障害者を動員したのも事実です。もしかした
ら由比ヶ浜の海岸で拾った海藻を豚の飼料に混ぜていたかも知れません。鎌倉保育園近隣
の養豚家も同じ事をしていたかも知れません。こう考えると現代に存在する光の源は、既
に昔に光の点として存在していた事を思わされます。
7 音次郎が見た夢
1925(T14)年3月30日音次郎は奇妙な夢を見ます。養豚家を訪問した時、そこの主人が
音次郎に洋服をプレゼントしようとしたのです。音次郎はとっさに「豚屋から洋服を貰っ
ては面ていに関わる」と断ったのです。即座に主は憤然として「そうか?!」と問い直し
ました。音次郎はハッとして、土下座をして無礼を詫びていると夢が醒めたそうです。
8 まとめ
聖書の中には養豚している豚に悪霊が乗り遷って2000匹が溺死するという驚愕の出来事
が記されています。キリスト教源流のユダヤ教では豚肉はタブーとされていました。もち
ろん、それは古代の神の知恵であり、現代になって豚肉の脂分には毒性が含まれている事
が解明されています。物の道理には人知を越えた神の知恵が隠されている事を思います。
東京2020から国内でもタブー食材、コーシャ認証、ハラール認証などが知られるよ
うになりました。そして今や学校給食も義務教育全般に拡大され、各学校では児童のアレ
ルギー食についてきめ細やかなる取組をされています。これには頭が下がります。
音次郎が明治時代に描いた夢、それはどのような困った状態である人とでも、共に生き
ていく。共生の考え方でした。時に音次郎自身も失敗をして、自分の心を再点検する事も
ありました。しかしその都度、周りの人に助けてもらいながら、また周りの人を助ける働
きに全身全霊を傾けていきました。
その音次郎の「福祉のこころ」を今に生きる私たちはもっと探ってみたいと願います。
これからも、揃った音次郎史料を心の飼料として用いたい。