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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃4┃
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┃別┃冊┃
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【読み物シリーズ 12】
佐竹音次郎の日誌と「日誌 佐竹音次郎」
作:中平菊美
佐竹音次郎の日誌が存在することは分かっていましたが、実際に見る事が出来たのは
2018年に所持していた子孫の方から保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会に送付されてです。
佐竹音次郎の日誌は、明治38年から始まり、明治41年から43年までの3年間は病気を理
由に記載されず、亡くなる前年の昭和14年までの33年間分31冊です。
事業開始の明治29年から明治37年までは、大学ノート2冊に鉛筆書きで備忘録的に書か
れていたが紛失したとあります。また、昭和15年も亡くなる寸前まで書いていたと思わ
れるが見つかっていないとの家族の記述があります。
明治38年からは医業を廃して保育事業に専念していますが、この際多くの人からの援助
に頼ることになり、そうした人たちへの報告の必要を思い日誌記載を重要視したようです。
記載率はおよそ76パーセントの約9,200日分です。
昭和51年に作られた事業80周年記念誌「日誌佐竹音次郎」は、佐竹音次郎の日誌のおよ
そ28パーセントの約2,600日を取り上げて活字化したものです。但し、省略したり数日にわ
たる内容を1日にまとめたりもされています。
音次郎会では日誌の読み取りを必要視していますが、個性的な毛筆書きで読み取りは容
易でなく、その筋の力のある方の指導を得ながら進めなくてはなりません。第1回「史料
読み解き学習会」を2月11日に行い、たくさんの方に興味があると思われる関東大震災の
あった大正12年9月1日を取り上げました。16名が参加し、高知城歴史博物館職員の指導
を受けつつ読み取りを行いました。
その読み解きを含め、関東大震災について以下のようにまとめました。
佐竹音次郎の保育園は、明治39年に腰越を離れて鎌倉市佐助ケ谷に移転しました。主な
建物は2棟で、大きさと丈夫さを考え、平塚荘の庄屋の家と旅館を購入し移築した物です。
震災による死者数は全国で10万5千人で、9割が火災によるものでした。
この震災について、音次郎の日誌大正12年9月1日には次のように記されています。
<読み>
震災(以下僅ニ
大正十二年九月一日 土、晴
朝如常
午前中、事務室ニ在る事例如シ(来信)は大阪の岡﨑
函館ノ今野、土佐の宮村(徳次翁)等なり、
稀世の劇震
時午に近く児輩食堂に在り藤田姉来り告く病床
の利美、父を呼ぶと、保育室の階上に狂犬病中の利美を
見舞ひ二三語を交わる際、劇震二三来る、縦横
上下孰(いず)れか先なりしを知らず、次ぎの瞬間に於て家傾
き崩れ屋根裂けて其前方先づ落ち同席の藤田
姉座を立つや転倒僅に圧傷を逃る、父を呼びつゝ
屋根の破れより来れる誠兄に病人救い出しを托し躍っ
て総庭に出つれバ長幼共余人期せずして集る万歳一声
先づ其無事を祝し、出で残れるものゝ誰々なるを聞けば
口々に答ふ甲乙丙丁戊・・・・・也と、則ち曰く泣く代りニ呼び出せと、
二三十人狂へるが如く甲よ乙よと呼び索(もと)む或は自ら間隙を
求めて出て来るあり或は人の手に救ひ出さるゝあり中には鋸
を要し?(てこ)を要するあり時に二三人呼はる者あり火
台所に出づと、驚き到れは既に消へて跡をも認めず各自
感激して出残れる数人を呼ひ尋或(あるいは)助け出さん事に
勉む、時を費す事三四時間にして捜索し得さるも
の三人、更に勇を呼して強索すれは信美の声微かに聞も、
力を尽して之を掘り出せは「信夫さんが僕ノ近くに寐(ね)て居
た」といふ則ち之ヲ発堀せば鼻口を強圧せられて事切れ居たり、
一同悲嘆の中に彼の一ヶ月程前に井に落ちし事を以て互に
慰め最后に残れる満(石渡)八才を索(もと)めたるも何の得る所
も無くして日暮れ又如何ともせん術無く空く前庭ノ桜
樹ノ下にて暁の来るを待つ、
劇震に次ぐに昼夜殆と間断無く大小の震動あり避難
者続々来りて門内の畑中或ハ籬(まがき)の辺にて夜
ヲ明かす火災所々に起り延焼止まず又警報あり
ツ浪襲来すも混雑言はん方なし、
此日園母は十太郎の消化不良の為に薬を得んとて本島医
伯を訪ひ其玄関に到るや否此事変に会し眉上に
傷レ軽を得て帰り、仙翁は頭部に微傷を受け人に 仙翁
助け出さるゝ也十太郎を抱きたるまゝ駐在所に行キタリ
とて程経て帰り来り一同に気を揉ましむ、幸に一
同狼敗の色なく感謝に満つるを見たり、園父一同
に代りて大声感謝の祈祷を為す事両度、
(大正十二九月一日午後十二時発、鎌倉警察署長、知事宛)
1、山階宮妃殿下御即死、賀陽宮大妃殿下御重傷、伏見宮博英殿下御無事、
1、全町殆ド倒壊、死傷千人以上ニ上ラン
1、市内各町ヨリ出火シ目下延焼中ナリ、御用邸倒壊、警察無事署
員異状ナシ
此日激震ニ次ニ水火災其他ハ以上ノ公報ニ依リテ多少推察スルヲ得ン?(か)
(註:改行の位置は原文の通り)
(難読漢字にフリガナを付した)
<私の解釈>
大正12年9月1日、土、晴
朝いつもの通り。
午前中事務室にいること、いつも通り。郵便は大阪の岡崎、函館の今野、土佐の宮村
(徳治翁:音次郎の兄の一人)等。昼に近く子どもたちは食堂にいた。藤田姉が来て病床
の利美が父(音次郎)を呼んでいると言った。
保育室の上のに部屋にいる狂犬病中の利美を見舞って二三語を交わした際、激震が二三
回来た。縦横上下どれが先かはわからない。次の瞬間、家が傾き崩れ、屋根が裂けて、そ
の前方が先ず落ち、同席の藤田姉は座を立つや転倒、圧傷はなかった。父を呼びつつ屋根
の破れより来た誠兄に病人の救いだしを頼み、庭に出ると何人かが集まっていた。万歳と
無事を祝い、出遅れた者は誰たちかと聞くと、口々に名前を言っていた。
泣く代わりに呼び出せと言うと、二三十人が狂ったように名前を呼ぶ。隙間から出てく
る者もあり、人の手により救い出される者もある。中にはのこぎりを必要としたり、てこ
を必要とする者もある。そんな時に二三人呼ぶ者がある。火が台所に出たと。驚いて行っ
てみると既に火は消えて火の形跡も認められない。みんな一安心して、出て来ない数人の
名を呼びながら助け出そうと動く。
三四時間が経ち、探し出せない者三人、更に勇の名を呼んで探していると、信美の声が
微かに聞こえ、力を尽くしてこれを掘り出すと「信夫さんが僕の近くに寝ていた。」と言
う。ここを掘ると、鼻口を強圧せられてこと切れていた。一同悲しんだが、一か月程前に
信夫が井戸に落ちて死にそうになったことをとりあげて、一か月永らえたととらえ慰める
ことにした。最後まで見つからない満(石渡)を探したが、日暮れを迎えた。空しく前庭
の桜の木の下で朝の来るのを待つ。
激震に続き、昼夜ほとんど間断なく大小の震動があり、避難者が続々来て門内の畑や垣
根の辺りで夜を明かす。火災所々に起こり延焼が止まない。又警報があり、津波が襲来し
混雑は言うまでもない。この日園母(妻くま)は十太郎(長女里の子)の消化不良の為に
薬を得る為に本島医伯を訪ねていた。この玄関に着くや否やこの事変に会い、眉上に軽い
傷を受けて帰り、仙翁(園の会計担当:仙葉)は頭部に微傷を受け人に助け出される。十
太郎を抱いて駐在所に行っていたとしばらくして帰って来て、みんなを心配させた。幸い
にみんな取り乱すことはなくて安心した。園父はみんなに代わり大声で感動の祈祷を二度
行った。
(補足1) 鎌倉小児保育園の被害は、建物倒壊、死者数2名(信夫、満)であった。尚、
腰越では、音次郎が開き、妻熊の姉幸(沖本幸子)が院長を引き継いでいた腰越医院が倒
壊し、幸が亡くなっている。
(補足2) 郷里の長兄卯太郎が大工などを連れて救援に行っている。また、郷里の90人
ほどがお金を出し合い、救援金を送っている。
(参考) 佐竹音次郎の日誌は、保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会で複製版を作り、昨年度
末から四万十市立図書館にも置いてもらい、自由に見てもらえるようになっています。