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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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                              ┃別┃冊┃

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【読み物シリーズ 13】

 

               揮毫と漢文

 

                              作:瀬戸雅弘

 

 佐竹音次郎の社会事業を経済的に支えたものは著名人による揮毫(きごう)です。つま

り書画を頂戴して希望者に頒布、つまり現代でいうところのオークションやフリーマーケ

ットの形式で収益を得て必要経費を産み出していました。読み物シリーズ1「~特別読み

物~曽祢荒助のこころ配り」(会報15号付録)には揮毫頒布によるカンパ、つまり募金活

動がはじめられた歴史的瞬間が詳しく描かれています。

 音次郎史料の「慈善書画会賛助芳名簿」(1905/明治38年刊)は順次、整備が進んでき

て音次郎の事業を支援した人々全体の顔ぶれが見えて来はじめております。

 そのような中で、ふと疑問に感じた事があります。音次郎は曽祢荒助の提案により著名

人の揮毫を集めようとしますが、「俺(曽祢荒助)が200書くから、他の者からは100ずつ

頼みなさい」と言われたと「聖愛一路」に書かれています。時代が違うとは言え100枚の

書画を寄付するようにお願いする事は並大抵の事ではなかっただろうと思います。しかし

1年ほどして2万点あまりの揮毫が集まって7千円の売り上げ、当時の物価を1万倍とし

て現代価値では7,000万円の収益を得る事ができました。このような事が可能なのだった

のでしょうか?

 

1 この読み物の着地点

 この疑問を持った時、「四万十市まちの偉人伝」にて木戸明展と幸徳秋水展(共に2021

年開催)を見て感じた事が思い起こされました。どちらの展示でも、主人公が描いた漢文

の揮毫が展示されていました。これを見た時に当時、文化人の「たしなみ」として、100

枚くらいの書画を書く事は、今から考えるほど骨折りの事ではなかったのかも知れない、

と思うようになりました。

 この読み物シリーズ13では、音次郎が収集をした書画の中でも「書」について、当時の

文化人の書道事情と、日本の漢字文化の小史を扱います。「画」については次号以降で研

究してお伝えしたいと思います。

 

2 漢字の伝来

 日本に初めて中国から漢字が伝来したのは卑弥呼の時代、3世紀頃、弥生時代末期と言

われています。日本を見聞した中国の記録文書「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)では日

本のことを「倭」(わ、後に「和」の表記に改まる)と呼んでいますが、これは卑しい文

字でその事から卑弥呼も含めて当時の日本人は文字の読み書きができなかったと考えられ

ます。

 これをきっかけに中国との交流が始まり漢字が伝来し、その後の日本の発展は著しく、

わずか200年あまりの間に世界最大の木造建造物である東大寺や大仏を建造するまでに高

度成長をもたらせました。

 なお、漢字伝来の歴史については加藤徹著「漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?」

(光文社新書 2006.2.16刊)がたいへん勉強になります。

 

3 毛筆と硬筆

 人類の歴史上では硬筆が先のようで、紀元前3000年には木の棒で粘土板に文字が刻まれ

ました。エジプトでは葦の茎でパピルスに文字を書き、それがペーパー(紙)の語源にな

りました。徳川家康は海外の色々な新しい文化を初めて体験した人としても有名です。日

本で初めて鉛筆を使ったのも徳川家康だと言われています。鉛筆は明治中期に三菱鉛筆が

大量生産するまでは「なり」を潜めていました。日本では毛筆が中心であり、ペンの代替

筆記用具としての需要が高まるまでは発展しなかったものと思われます。ちなみに三菱鉛

筆と三菱財閥は無関係で、三菱のマークは三菱鉛筆が先に意匠登録をしたそうです。

 世界的には羽根ペンや金属ペンとインクを用いた筆記具が発展しますが、日本へのペン

伝来は黒板などと共に明治維新になってからです。この合理的な筆記具は政府で急速に登

用される事になり1908年(明治41)公文書へのペン記が認可されます。

 いっぽう毛筆の歴史も紀元前3000年頃と考えられますが、日本には仏教伝来と共に入っ

てきたとも、卑弥呼の時代に漢字と共に入ってきたとも考えられています。

 日本の歴史上では3世紀の漢字伝来が文字文化の始まりとして、2023年までの1723年間

のうち、硬筆の歴史は僅か115年(公文書へのペン書きが認可された時を基準として)。日

本の有史上9割3分を占める時間を毛筆が文字文化を担って来ました。

 この比率になぞらえる訳ではないのですが音次郎の日誌は93%ほどが毛筆(あくまでで

も目分量ですが)で、わずかに鉛筆書きやペン書きの部分も存在しています。

 

4 漢文が日本にもたらせたもの

 先に紹介しました加藤氏の著書では「漢文は東洋のエスペラント語」と表現されていま

す。エスペラント語とは宮澤賢治も魅せられた人造言語の事で、世界の共通言語を目指し

て19世紀に開発されました。西洋にはラテン語があります。それは現代の全世界に対して

の英語の役割的な言語です。そういう意味では歴史上、西洋のラテン語、東洋の漢語とい

う共通言語が存在していました。

 アジア地域には漢字文化圏が広がっています。現代の日本語が漢字伝来以降、今の体系

になったように、漢字文化が母体となっているアジアの言語は複数あります。韓国語の

「ハングル」は表音文字という発音を表す文字を使う言語ですが、単語の多くは漢字の熟

語に置き換えることが可能です。ちなみに漢字は表意文字と呼ばれ、象形文字から進化し

て文字の形が言葉の意味を表している言語体系です。また、ベトナム語もかつては「チュ

ノム」を用いて日本語の漢字仮名交じりのような形態を採っていましたが、歴史の流れの

中で現在のアルファベット「チュ・クオック・グー」だけを使う表音文字の言語体系にな

りました。それでも単語の7割近くは漢字に置き換えることが可能と言います。

 日本に漢字が伝来してから急速に文化が発展したことは先にも話しましたが、アジア諸

国との海外文化交流の面でも、漢字伝来は大きな役割を果たしたと言えるでしょう。

 

5 日本の教育

 江戸時代、寺子屋が発展します。その教科は読み、書き、計算です。江戸時代の日本語

文書は音次郎の毛筆日誌と同様、漢字仮名交じり文ですが、上流階級では純正の漢文が読

み書きできたそうで、杉田玄白の「解体新書」(1774)などは純正漢文で著されたそうです。

 徳川鎖国時代の評価は分かれますが、江戸時代約300年の間に漢文は日本で独自に進化し

て、新しい熟語が産み出され、漢字そのものさえ日本で作り出されるようになります。こ

の時代に庶民にも教育が浸透していき、明治維新の義務教育化とあわさって現代社会では

日本の文盲率は世界一低いと言われるまでに文化的成長を遂げました。そして外国人から

は「日本はホームレスまでもが新聞を読める」と揶揄されるようになりました。

 音次郎が少年時代を過ごした中村でも、木戸明・樋口真吉らを中心に文武館が開設され、

文系科目では漢学、習字が伝授されて音次郎の教育素地となりました。詳しくは~読み物

シリーズ8~「学制150年と音次郎の勉学」(会報第21号付録)にわかりやすく記されてい

ます。

 

 

6 100枚の書を提供する人

 明治時代後期の日本では、文字文化が毛筆で担われており、当時の文化人の多くは漢文

を書いていました。音次郎が寄贈を受けた書には詩や習字(小学校の掲示板に貼りだされ

ているような四字熟語などを書いた物)もあって、必ずしもすべてが漢文であったとは限

らないようです。「四万十市まちの偉人伝」でそれらが展示されているのを見て、私は思

いました。多くの文化人達は漢文や短歌を額に入れて作品を完成させるまでに、その練習

した物や下書きなどが副産物的にたくさん産み出されたのではなかろうか、と。その出来

損ないを音次郎が収集して頒布したとなれば鎌倉保育園の名誉にも関わりますが、当時の

文化人が100枚の書を書く事は、芸能人が色紙にフェルトペンでサインを何枚も書くよう

な事だったのかも知れません。

 曽祢荒助は「俺が200枚書く」と宣言しました。慈善書画会賛助芳名簿に記載されてい

る書の提供者173名です。曽祢荒助にならって200枚書いて寄付した人は10名も居ました。

これには音次郎に成り代わって厚く御礼申し上げたいところです。そして、音次郎は荒助

から「他の者には100枚を頼みなさい」と言われましたが、言葉通り100枚を寄付してくだ

さった方は53名ありました。

 なお、これも読み解き学習会で分かった事ですが、音次郎は書画を寄付してくださる方

には資材(半紙や画材など)を提供していました。

 

7 漢文と音次郎

 音次郎は日誌を漢文で記載していた時期があります。それは1935年(昭和10)11月7日

から12月31日までの期間で、日誌(原本)ではこの期間の初日に別の仕切り表紙が付けら

れていて、そこには「漢文未成稿」とあります。漢文で書く理由は初日にそれも漢文で記

されています。

唯無漢文実習之外而己

 中国語を読める方にこれを読んでいただきますと、これは純正漢文ではなく江戸時代に

変化した和製漢文で、文法や漢字の使い方が違っていて正式な読み方では対応できないよ

うです。しかし、おおよそ意味は通じます。「ただ自分の実習のために漢文をやる」。

 ところがその期間はわずか2ヶ月足らず。翌年元旦の日誌からは通常の漢字仮名交じり

文に戻っています。そこにもやめる理由が次のように書かれてあります。

 祖父は漢文習熟の為に日誌に仮名文字を用ひまじきを願ひ居る際とて例年の如く軽く着

手する能はず既に十日を経過せり

註釈:「祖父」は音次郎自身の事。音次郎は鎌倉保育園を1つの家庭として捉え、その

家族の中の位置づけで職員を呼んでいました。音次郎はお爺ちゃんの年になっていたので

自分の事を「祖父」と表現していました。

 この事から、音次郎が日誌を書いたのは基本的には毎日ですが、後日まとめて書いてい

た時もあった事が分かります。今までの読み解き学習会の題材となった日誌の部分でもそ

の事実は発見されて居ましたが、ここでは昭和11年正月も元旦から日記を書こうと思いつ

つ、既に10日も経ってしまったので漢文で書く事を断念した事が分かります。音次郎は既

に次女の夫である佐竹昇に代表職を譲り、なかば隠居状態でしたが、それでも、多用があ

り、自分の漢文実習の為に時間を費やす事が難しかった事も分かります。

 

8 まとめ

 平成に代わる新たな元号が「令和」に決定されて5年。これまで247すべての元号は、

中国の古典が出典とされていましたが、今回は日本最古の歌集「万葉集」が出典となった

そうです。今回の学習で、日本に輸入された漢字文化は独自の進化をして、現代では日本

で新しく紡ぎ出された漢語(熟語)が中国へ輸出されるまでになりました。これらの熟語

のことを「新漢語」と呼びますが、それには「意識」、「運動」、「階級」、「共産主義」、

「共和」、「進化」など多くあります。この事を加藤氏は著書で「日本が中国に漢語を逆

輸出して恩返しをした」と表現しています。

 音次郎は当初、鎌倉保育園の発展のために中国に支部を設けます。これには漢字文化が

中国人との意思疎通に功を奏した事でしょう。しかし、音次郎は5年後にこれを中国の為

の保育事業へと方向転換します。そして、この旅順支部をきっかけに京城、台北、大連、

北京と拡大しますが、それは日本の八紘一宇(はっこういちう/植民地政策の事)とは真

逆のもので、アジア各国の為の働きとなりました。それは漢文を学び、医学を修め、教育

を積んだ、音次郎からアジア文化への恩返しの1つだったのかもしれません。

 「令和」が中国古典ではなく、日本古典から紡ぎ出された事は、中国からいただいた漢

字文化が自家製漢語で賄えるまでになったという「発展の感謝」との見方も出来ると思い

ます。

 音次郎の時代、日本が仕掛けてその状況を作り出してしまった非はあるのですが、戦争

孤児たちを助けた鎌倉保育園の働きは、困った人を助けようとした音次郎の初志貫徹のあ

らわれだったでしょう。

 この音次郎の思いに、慈善書画会賛助芳名簿第1号と4号に記されている延べ652人が

「音次郎のために骨を折ろう」と決心してくださったのでした。