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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃5┃
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┃別┃冊┃2┃
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【読み物シリーズ 14】
鏑木清方と佐竹音次郎
作:瀬戸雅弘
2022年7月。音次郎会が整備を続けていた日誌複製版が完成した時、お礼を兼ねて史料
提供者へ完成品をお届けしました。その時、鏑木清方記念美術館に観光案内されました。
「街の中の小さな美術館」という愛称の民家の美術館です。これは東京生まれ東京育ちの
日本画家・鏑木清方が後年、鎌倉に移り住み、その旧邸を美術館にしたものです。
鏑木清方は音次郎の14歳年下ですので活躍した年代は、ほぼ、被ります。私は日本画に
は興味がなく、清方は美人画で有名なのですが、それでも関心が湧かずに漫然と見回って
いました。ところが大変重要な発見がありました。私のこの美術館見学は、その後の音次
郎研究に総合的に役立つことがたくさんありました。
1 この読み物の着地点
前号の読み物シリーズでは、音次郎が事業資金捻出の為に取り組んだ著名人の書画収集
の中でも「書」の部分をお話ししました。「画」の部分についても後に述べるお約束でし
た。今回はその中でも日本画家・鏑木清方と保育の父・佐竹音次郎の関係について、特別
にお話ししたいと思います。
音次郎史料は読解学習会にて研究している途中ですが、これまで4回の学習会に取り上
げた題材の中にも、この美術館訪問で得た知識が役立ちました。
また、音次郎史料は高知城歴史博物館の協力により番号付けされて、その時わかる範囲
内で、①いつ、②誰が、③何を、④誰に、⑤どのように、⑥どこで、⑦どれくらい、等の
情報を調べて史料1点1点に調査カードを付けました。しかし、半分以上の情報は現物か
ら読み出す事ができないままの状態です。ところが、ここでも美術館の智恵が役立ちまし
た。
同じ鎌倉で没した清方と音次郎です。この2人に親交はあったのでしょうか。少し取り
散らかす内容ですが、この発見学習で得た知識がどう役だったかを紹介しつつ、清方と音
次郎の関わりをお話ししたいと思います。
2 鏑木清方という絵描き
鏑木清方……、テキギ?
まずこの人の姓・鏑木の「鏑~かぶら~」という漢字が難しく、私は今までにも何度と
なく見ていたにせよ、改めて美術館の看板を見て頭をひねった事です。
鏑は弓矢に付ける部品を差す言葉で、カブラ(ダイコンの種類の、あの擬宝珠(ぎぼし)
のような丸い形のカブの事です)の形を鹿の角などで作り、中を空洞にして表面に穴を開
け、飛ばした時にピューと音が出るようにする物の事だそうです。ですから先祖は軍事に
関わる一家だったのかもしれませんが、清方の父は現在の毎日新聞の前身・東京日日新聞
の創始者の一人で、清方は幼少から文芸に親しんで育ちました。
清方と音次郎の生没年と場所は次の通りです。
鏑(かぶら)木(ぎ)清(きよ)方(かた) 1878年(明治11)~1972年(昭和47)東京生まれ、
鎌倉で没する
佐竹音次郎 1864年(元治 1)~1940年(昭和15)14歳年上、土佐生まれ、鎌倉没
鏑木美術館内は撮影禁止ですが、唯一許可されている物が清方の用いた絵の具のサンプ
ルです。絵画の歴史では絵の具を開発する上での苦労話が付きものです。清方も描く上で
実物の色、心の色を再生してくれる絵の具を探し求めました。その1色1色に物語がある
ようです。
NHK朝の連続ドラマでは音次郎と同じ土佐藩出身の牧野富太郎が登場しました。富太
郎も植物図を描く為に絵の具の調達を苦心した事などが描かれました。
三者三様で自分が取り組もうとする事業の為には誰も「お金の問題」がつきまとってい
た事を思います。
3 「三遊亭圓朝像」を描いた清方
扨、私事~さて、わたくしごと~、中学生の頃、実家には叔父さんの落語のLPレコー
ドがありました。私は笑福亭仁鶴の口演を聴いてすっかり落語ファンになりました。無関
心だった美術館内をぼんやりと見ていた私が、年表から清方の作品には「三遊亭円朝像」
が存在している事を発見しました。人間、興味のある物はパッと目に入って来るものです
ね。(“扨”の漢字と用法は、前回の読解学習会で皆さんと共有しました)
がぜん興味が湧き、「その絵はどこにあるのだろうか?」と、私は目を光らせて探し始
めました。ところが「圓朝像」を見つけられません。私は事務所に声を掛けました。する
と、美人画を描いたという清方にモデルにされそうな学芸員さんを私の元へと呼んでくだ
さいました。
学芸員の説明は大変丁寧で、中身も深く、驚かされました。学芸員だから当たり前かも
しれませんが、私の取りとめのない質問に対してスパスパと答え、場合によれば図書から
ズバリその場所を開き、説明をしてくださったのでした。
三遊亭円朝とは明治の噺家大看板で、日本テレビの笑点で有名な桂歌丸が晩年、笑点を
引退して古典落語の高座に全精力を注ぎますが、その彼が演じた作品の多くが圓朝・作で
した。圓朝は当時、多くの噺を創作し、それは現代の古典落語の礎となっています。
彼の創作噺を清方の父が台本にする為、清方の自宅では何度か寄席が設けられました。
その時、円朝は若い清方に絵の道に進むよう勧めました。本作品は〈故人(圓朝)が勧め
てくれた仕事でその人の職分の姿を寫(うつ)し、世に殘(のこ)さう(そう)〉(「鏑木清方
文集」より引用)という制作動機のもと完成しました。それまで清方は肖像画を敬遠して
いましたが、一度取り組んでみるとその奥深さに気づいたそうです。似せる事よりもモデ
ルの人と形(なり)や、環境・時代・生活を表現する為に調度品や持ち物も周到に写生した
そうです。また、自分の記憶の中にある円朝の風貌やしぐさも組み合わせました。円朝は
高座に上がるとお辞儀をし、おもむろに白湯を飲んで、懐から手拭いや紙束を取り出して
右に置くのがルーティンだったと清方は記しています(同、引用)。「三遊亭圓朝像」
1930年(昭和5)、清方52歳の作品です。2003年(平成15)、重要文化財に指定されます。
清方が肖像画を描く事にハマるきっかけは「圓朝像」と言っても良いそうです。
しかし「圓朝像」は鏑木美術館にはありませんでした。記念品コーナーでは清方の色々
な作品が絵はがき等グッズになって販売されていましたが、「圓朝像」は東京国立近代美
術館に収蔵されていて権利の関係で商品化もできていないそうです。ですから、どれだけ
探しても私は「圓朝像」をここに見る事ができなかったのです。
美術館内には清方の絵の具、復元された画室、製作過程の説明もありました。しかし
私は冷眼傍観、ただ冷ややかに流し見ているだけでした。ところが学芸員が示す作品要
覧の「圓朝像」を見て、私の目は鵜の目鷹の目になりました。この絵は落語ファンなら
本などで必ず1度は見た事がある絵でしょう。記念切手にもなっています。それほど有
名な人の、有名な絵を、清方が描いていたとは、驚きでした。
4 日本画の基礎
そんな私に学芸員は「圓朝像」の下絵を見せてくださいました。それはその時には展示
されていませんでしたので図書からではあったのですが、ここに収蔵されているのです。
下絵の話を聞いて、自分の中ではそれがどういう意味かが解っていませんでした。学芸員
は続けて説明してくださいます。
日本画の特徴はまず和紙に下絵を描いて、その上に絹などを置いて本書の為の清書をし
て仕上げていくという製作工程を取ります。ですから日本画の場合、下絵と完成画の両方
が残るのです、と。
去年(2022)、清方没後50年記念作品集の図鑑が発売されました。学芸員は華奢な手に
A3サイズくらいで厚さ7cmほど、10kgはありそうな大きな図鑑を持ってきてくださり、
精一杯の力を込めてハードケースから取り出し、「圓朝像」のページを開いて見せてくだ
さいました。最新の図鑑では圓朝が着ている着物の柄まで鮮明に再現されていた事が見て
取れ、その絵をそのまま染め抜きの原画にできそうなほどくっきりしていました。
時代時代で画像処理技術は向上し、この図鑑の画像はとても鮮明で実物を見るように清
方の作品を鑑賞する事ができる、と言います。この図鑑の写真と、以前の作品要覧の写真
とでは時代の技術力の差をはっきりと感じました。しかし複製はあくまでも複製に過ぎま
せん。それでこそ美術館では本物を展示しているのだ、と改めて感じました。
これは、音次郎会の史料複製についても同じ事が言えると思いました。今は精一杯、
複製していたとしても、後の時代には必ずそれを上回る技術でキレイな複製ができる事を
思えば、私たちの取り組みが小さい事を思わずにはいられません。音次郎のように絶えず
謙虚な姿勢が必要である事を教えられます。
5 美術館見学の成果
こうして鏑木美術館で得た知識が大変役立つ事になりました。
今年から始めた読解学習会の第3~4回では、音次郎が慈善書画会の賛助者を訪問する
ところの日誌を読み解きましたが、「絹本(けんぽん)廿三四(23~4)本ヲ預ケ」や、「藤
沢ノ桔梗屋(ききよう)ニ紙ヲ取リニヤリ」と書かれている意味を理解できるようになった
のです。音次郎は作品を描いてもらう為に寄贈者に原料を提供していた事を読み解く事が
できたのです。
清方の絵に関心をもった私は、それからはしっかりと作品を見つめるようになりました。
音次郎会が縁者から音次郎史料を受け取った時、私は蓋を開けてまっ先に、いちばん華
があった1枚の絵が目に留まりました。それは当時すぐに音次郎会ホームページで公開し
ましたが作者不明としておりました。これが誰が描いた物か判らずじまいでした。ところ
が、鎌倉から帰ってきて史料整理をしている時にその絵を再び見た時、絵の端の署名が
「清方」とパッと読めたのです。今までもそこにサインがある事は分かっていましたが、
私の眼が成長したのです。それは清方が描いた絵だったのです。
また、美術館見学で私の眼は肥えて今まで読めなかった奉加帳にある「鏑木清方」の文
字も読めるようになりました。
入館した時は受け身でぼんやりと見ていた私が積極的になって学芸員に質問までするよ
うになって、案内してくださった縁者の方をすっかりとお待たせしてしまう事になりまし
た。
「まぁ、私はここで休んでいますから、ごゆっくりご覧ください」と仰ったので、額面
通りにその言葉を受け取らせて頂き、さらに私は研究熱を高めました。そのような私をひ
たすら美術館の長椅子に座って気長に待ってくださった縁者の寛容さには、ここへ案内し
てくださった事とあわせて感謝の思いが尽きません。
6 作品「孤児院」
更に私は貪欲になり「ここには、もしかしたら音次郎に関連する作品があるのではない
だろうか」と、探し始めていました。――その時はまだ清方が慈善書画会に賛助している
絵描きであるとは知らなかった――。すると「孤児院」という作品が目に留まりました。
清方がこの作品を描いたという事は、「彼は音次郎の事業を見て、この作品を描いたので
はないだろうか?」と、思いました。しかし、残念ながら清方が鎌倉に移り住んだのは音
次郎の没後6年の事です。また「孤児院」という表題の通り、どちらかと言えば石井十次
等の児童救済事業を意識しての作品でしょう。横山充男著「万人の父になる」の中で浅井
春夫氏は「鎌倉保育園は日本で37番目にできた児童養護施設」と解説してくださってい
ます。ですから清方は他の36のいずれかの孤児院をモデルにこの絵を描いたのでしょう。
この絵が再び気になりましたので、私は二度目、学芸員さんを呼び出していました。画
中には保育士的役目の女性が描かれているのですが、これは美人画の一環として描かれた
作品かと尋ねてみました。すると「いいえ」でした。清方は孤児院を当時の時代風俗とし
て描いたとの事です。孤児と思われる子供の顔には通常の日本画ではあり得ない顔の陰影
が表現されているそうです。清方は孤児院を見て、子供たちの哀れを感じて、それを描こ
うとしていたようです。
清方は16歳から新聞の挿絵を描くようになります。この作品を描いたのは24歳、1902年
(明治35)、音次郎の腰越小児保育院が誕生して6年後の事でした。「孤児院」は清方が
初めて展覧会に出品した作品のようです。ここで銅牌の賞が与えられて清方は世に認めら
れる絵描きとなりました。しかし、その後、清方は生活の為に新聞のコマ絵を描き続けて
展覧会からは遠ざかります。
7 鎌倉に移り住む清方
清方は戦渦により東京の自宅を焼失し、御殿場への疎開生活を経て1946年(昭和21)に
鎌倉に来ます。音次郎の関わった人物は桑原戒平も横田金馬も、皆、音次郎の住む鎌倉に
引き寄せられていますが、清方も鎌倉にやってきました。これは偶然とするべきでしょう。
しかし、私はあえて「清方は音次郎の跡を追う為に、鎌倉を選んだ」と、言いたい。
実は、音次郎は少なくとも2回は東京神田の鏑木宅を訪問しています。それは先ほどお
話しした通り美術館見学効果で、私は奉加帳にある清方の署名を読めるようになったので
す。第1~3回の奉加帳と、第4回の奉加帳の2冊に1回ずつ、「畫(画) 鏑木清方」と
署名がある事を、私は鎌倉から帰ってきてから発見しました。
清方は作品「孤児院」で一躍、画壇に名を連ねる絵描きになりました。この清方が既に
自分の定評ある作品が存在している所にさして、音次郎はやって来て「孤児院ではなくて、
保育院をやっております。たとえ立派な親がなくても私という親ができて、子等を保育し
ているのです。彼らは孤児ではないのです。どうかご支援くだされ」と、頼むのです。も
し清方が短気な人だったら、音次郎に塩をまいていたかも知れません。しかし、清方は音
次郎の為にも絵を描いたのです。
「孤児院」を描いて以降、食べる為の絵しか描いていなかった清方ですが、1905年
(明治38)音次郎に頼まれて作品を進呈してからというもの、大正期に入って著しい活躍
を見せるようになります。
そして、後年の鎌倉入りです。音次郎没後の事とはいえ、清方もまた、音次郎に引き寄
せられた1人だったと言っても良いのではないでしょうか?
8 清方と音次郎の共通点
「画工と書いて絵描きと読む」。これは清方の言葉です。自分で画家とは言わず、まし
てや画伯などとも言わず、「自分は一介の絵描きである」という思いが清方の心には終生
ありました。また、美人画で有名となりそれを求められる事が多かったのですが「自分が
描きたかったのは生活だ」とも言いました。
一方、音次郎の人柄は堺利彦が「萬朝報(よろずちようほう)」でこう述べています。
「氏は丈高く、色黒く、謙遜なる態度、丁寧なる語気、如何にも質素摯なる一紳士であ
る」
つまり「謙虚で質素、真摯な人だった」と言いました。(萬朝報創刊10周年記念号 特集
記事「小児保育院」から引用。理想団の会合で堺利彦が初めて音次郎に会った時の感想)
9 清方と音次郎とのもう1つの接点
清方と音次郎は書画のやり取りで交流がありました。そして、音次郎史料の中にあった
1枚の絵が清方の作品だと判った事から、清方と音次郎とは単なる寄付者としてではなく、
もっと大きな繋がりがあった事が見えてきました。
その絵は、音次郎追悼録「松籟」の装丁原画だったのです。清方は音次郎の「子供の為」
に絵を描いていましたが、音次郎が死んだ時、清方は音次郎が愛した松の絵を「音次郎の
為」に描いたのです。清方が音次郎の葬儀に参列したかどうかは調べられませんでした。
しかし、「松籟」に記録されている「お花料御芳名」の一覧表には「鏑木照子」、つまり
清方の妻の名が刻まれていた事までは判りました。
10 まとめ
作品「孤児院」で世に出る事になった清方。その後、清方は生活の為の絵ばかりを描き
続けたと述懐しています。そんな折、「子供の為に絵を描いてくれないか」と、音次郎が
清方の元へと訪ねて来ます。その時、音次郎は津田仙の勧めによりキリスト教の洗礼を受
けたあとでした。聖書にはこのような言葉があります。
自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失っ
た者は、それを自分のものとします。
(新約聖書 マタイの福音書 10章39節)
清方にとっては自分の出世作「孤児院」さえ否定するような「保育院」の人がやって来
て、食う為に描いている自分に対して「絵を寄付してくれないか」と頼んでくる。清方に
とってみればまさに音次郎から十字架を突き付けられたような気持ちだったでしょう。し
かし、清方は描きました。音次郎の子供の為に。自分に死ぬように、27歳の清方はひと肌
脱ぎました。その子供とは、音次郎が我が子として大切に育ている子供でした。孤児では
なく、大切に保(・)んじて育(・)てられている子供たちでした。
この時、「清方の人生の中で絵を描く動機が変化した」、「清方の歴史が動いた」、もっ
と大胆に言わせていただければ「音次郎のこころに触れて清方が生きた」とは、考えすぎ
ですか?
この出来事ののち、清方は画風を円熟させ、画壇ではどんどん出世します。そして、数々
の賞を得ました。清方は戦争の悲惨を体験したのち、音次郎の墓がある鎌倉へと移り住みま
す。そして清方は死んだのちも「圓朝像」で重要文化財に指定されるまでの日本画家になり
ます。
これは音次郎会としての贔屓目の見方が強すぎますか?
しかし、事実だけを辿ったとしても、こうです。
清方は「私は画工だ、一介の絵描きだ」と謙虚で自分に死んでいる人で、音次郎の子供
の為に少なくとも2回は複数枚ずつ絵を描いて寄付をし、音次郎の葬儀には少なくとも夫
人がお花料を持って行き、音次郎の遺稿集では表紙絵を署名入りでプレゼントしました。
そして「作品『孤児院』は、私が世に出た作品だ」と言いました。
鎌倉に、音次郎のこころと繋がっていた画工(えかき)が、今もその小さな美術館に生き
ているのです。
2023.11.13 Mon