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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃別┃冊┃
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【読み物シリーズ 15】
母を訪ねて三百里
作:瀬戸雅弘
音次郎に関する貴重な歴史的資料(史料と呼ぶ)が届けられてから、音次郎会では複製
や内容の整理に取り組んできました。それと同時に中味を読み解く学習会も昨年から始め
ました。ところが、史料の中心は音次郎の手描き毛筆日誌であり、個性的な筆跡を読むの
に至難を極めております。古文の読み解き自体がとても専門的な事で、せっかく興味を持っ
て参加してくださった方にも不愉快な思いを与えてしまいました。
そこで2023年12月に行った第5回学習会では古文解読をなるべく「さらり」とこなして、
音次郎が「保育の父」と呼ばれる所以(ゆえん)にまつわる内容を扱って原点回帰する事を
目指しました。音次郎が、預かった子の「実の親への慕情」をどう取り扱ったのか。複数
の史料を読み解きました。
1 「ハハノトコロシレタ、イサイフミ」
音次郎会では音次郎に「保育の父」との称号を冠しています。それは新版『聖愛一路』
49~50pの一文に次のような下りがあるからです。
彼(音次郎)は孤児院の名を嫌った。例え立派な親がなくても自分という親ができている。
これは音次郎が自分が運営し始めた孤児院に「小児保育院」と名付けた時の話です。今
までの研究で既にこの時「保育」という熟語自体は存在していたようですが、やはり育児
事業に「保育」と名打ったのは音次郎が史上初の事には間違いありません。既に日本は開
国しており外国人宣教師の妻等によって託児事業は始まっていましたが、そこに保育とい
う名前は用いられておりませんでした。もとより、日本仏教の歴史の中で聖徳太子が初め
て着手した孤児救済事業は孤児院と名付けられていましたので。
音次郎はキリスト教精神の薫陶を受けますが、聖書の基本教理に「隣人愛」があります。
隣(となり)人(びと)を自分のように愛するという考え方です。音次郎が預かった子供も
「我が子」として育てようとしたのはそのような理念に基づいていたからと言えるでしょ
う。
今回の物語は1929年(昭和4)10月28日月曜日の日誌から始まります。ここに「ハハノ
トコロシレタ、イサイフミ」(母の処 知れた、委細 文)との記述がありました。誰のお
母さんの居場所が判ったというのでしょうか?
2 五十嵐愛子という女の子
日誌(原本)の10月28日の書き始めは「晴れ 朝の常 マタイ十三章 天国の聖話」で
す。音次郎は曜日と共に天気を1行目に書きだします。2行目はほぼ、朝の祈り、聖書の
黙想が手短に記されています。それを後年では「朝の常」と略記するようになっています。
この日、音次郎が読んだ聖書は新約聖書のマタイの福音書13章という個所です。ここには
主イエス・キリストが、農夫が畑に種を蒔く動作から例え話を始めて、その種がやがて生
長して天の恵みを思い描かせる内容です。音次郎は朝、この場所を読んで「天国の聖なる
お話だった」と、簡潔に感想を述べているのです。
その上で、一昨日26日に五十嵐愛子の母が東京に居る事を突き止められた件に関して、
アクションを起こさなければとの動機付けがなされたようで、愛子にまず、この事実を告
げる電報を打ちます。そして、大分県杵築町の情報提供者にも御礼の電文を送っています。
その人は河合精一郎だとも書かれています。
3 母を訪ねて300里
むかしのアニメ劇場のタイトルのようですが、五十嵐愛子の母を訪ねた距離感を考えて
みました。東京日本橋を起点として現在の大分県杵築市(現在は町から市になっているよ
うです)の市役所までをルート検索すると1130km程度です。100年前には高速道路も山や
谷を越えてトンネルや橋も少なかった事を思えばもっと遠かったと思いますが、仮に1里
3.9kmとして割り算すると300里となります。アルゼンチンのマルコ少年の物語の10分の1の
距離ですが、充分遠い隔たりです。
日誌(活字版)では、次に愛子の記事が登場するのは11月19日で、途中経過が飛んでい
ます。そこで、この時期の手紙を探していますと、11月3日に音次郎が次女・伸の夫・昇に
宛てた手紙が存在していました。それに拠れば、愛子はこの時、昇夫妻と共に旅順支部に、
何らかの原因で滞在している事が判ります。この手紙の冒頭はこうです、
去る廿八日(28日)の夕方突然ながら愛子さん宛にて「ハハノトコロ、シレタ、イサイ
フミ」サタケと電報を差上て其まヽ手紙を差上ませぬ故、何んの事だト御不審なされて居
られる事と存じます。
史料の記録が相関関係で一致しており、お互いの史料が当時の情報を補い合ってくれま
す。余談になりますが、これが歴史研究の「おもしろみ」と言えるでしょう。
そして、日誌だけでは理解できなかった大分県杵築町の河合精一郎という人物は誰なの
かが、この手紙で明らかになります。
実は其日ニ、大分縣の杵築町という所の町長(河合精一郎氏)より愛子さんの事に付き
て御手紙参り 其御手紙に愛子さんの母様より御手紙が来た様に書いて有りましたから
其町長さんに聞けば直ぐ判明するものト存じて 一日も早く愛子さんを喜ばせようト考へ
たもの故 取敢ず電報差上げました
何と、河合という人物は町長だったのです。これは、ここまでを私が読んでの推測にな
るのですが、愛子の母が大分県出身である事は音次郎が予め知っていて、行方不明になっ
た五十嵐のお母さんを出身地に問い合わて探し出そうとしたものだと考えられるでしょう。
4 音次郎の人脈
この大分県の町長からの吉報ですが、大分県は津田僊(津田仙)の故郷です。津田僊は
音次郎をキリスト教に導いた、いわば音次郎の師匠です。また書画の寄付に応じた人物に
も元田肇(第25代衆議院議長、逓信大臣、初代鉄道大臣)、箕浦勝人(新聞記者、衆議院
議員、逓信大臣)などの大分県出身者が登場します。音次郎は愛子の願いを叶える為に八
方手を尽くしただろう事が覗えます。
会報25号では、慈善書画会に参画した陣容を詳しく分析した結果を掲載しましたが、そ
の中で都道府県別にも見ております。大分県出身者は9人いました(解読できていない人
名の中から増える可能性があります)。音次郎は事業資金捻出の為に奔走しますが、そん
な中でも、本来、真っ先に取り組むべき養育の事に関して、この人脈もチャンスと捉えて、
ある時はその人脈を通して今回のような尋ね人もおこなっていた事が推測できます。
5 母は、今……
11月19日の日誌を詳しく読んでいますと、①母子の対面は10年ぶりである事、②音次郎
は10年前に愛子の母とは、実は、会っていた事、しかし、③愛子にとっては母に会えるの
は生まれて初めてである事、などが判ってきます。
そして、音次郎が愛子の母に対して「更生」との言葉を用いている事から、愛子の母は
女囚であったのではないか、と推測されます。つまり板垣退助が政界を退いて後、夫人を
中心に活動していた女囚の要保護児童支援活動を、音次郎が引き受けていた「その1つの
ケース」であった可能性が高いのです。「母子初めての対面」という記述から、愛子の母
は獄中で出産したのではないか、とさえ推察ができます。日記ではこう綴られていました。
此人 寔(まこと)に更生の境涯に在るを見て感謝の情動く事 頻(しき)り奈(な)り。来春
昇兄來援の際 愛姉を伴ひ来りて生来初めての母子對面(たいめん) 叶はゞ 誠に幸なりと思
ふ。
音次郎はこの母子初対面の調和をはかったのでした。
6 板垣退助との繋がり
史料読解学習会③(2023年6月実施)で、音次郎と板垣退助の繋がりを学んだ時に、日誌
(活字版)で「板垣退助」と読まれていた部分は、実は読み間違いである事がこの時に発
見されました。音次郎と板垣との繋がりは確実ですので「この1点においては悲観するも
のではなく、むしろ歓迎。歴史研究というものは進めば進むほど新たな発見があるものだ
から」との総括をしておりました。
その、一見空振りに思われた板垣退助との繋がりが、今回、ここでまた見えてきました。
これからも読み解き学習会を重ねるごとに、様々な発見ができる希望が見えた第5回学習
会でした。
そして、音次郎が事務的に奔走している中でも、実の子を思うように預かった1人1人
の子供の最善を尽くそうとしていた事も見えました。愛子が実の母を恋い慕う思いを叶え
ようと、音次郎は自分ができる事をしました。これが「保育の父」なのです。