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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃7┃
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┃別┃冊┃
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【読み物シリーズ 16】
幻の墓碑
作:中平菊美
昭和15年(1940)8月16日に亡くなった音次郎は、鎌倉市の海蔵寺にあった鎌倉保育園の納
骨堂に納められたが、翌年1月16日に竹島にも分骨された(「日誌 佐竹音次郎」の年表に
よる)。その時に置かれたと思われる墓碑の写真はなく、幻の墓碑である[参考1][参考4]。
この分骨に併せて全国育児事業協会による「生家の碑」が生家の庭に設置された。字は協
会長であった大久保利武侯爵である[参考3]。
昭和41年(1966)、佐竹 昇理事の時代、墓地を海蔵寺から鎌倉霊園に移したことと併せ
て、竹島には、昭和34年(1959)4月26日[参考5]に亡くなった妻くま子と一緒に眠らせ
てあげたいとの家族の思いから、「佐竹音次郎 仝(どう)妻くま子 墓」と刻印された墓
碑が置かれて現在に至っている。なお宮村家の墓地は令和1年(2019)暮れ頃に屋地側に
移転し、現在、竹島墓地には音次郎と熊の墓碑だけとなっている。
墓石の側面には音次郎の生い立ちと業績が、また背面には5名の実子の名前が刻まれて
いる[参考2]。ちなみに鎌倉霊園の墓誌にも同様の碑文が刻まれている。
海蔵寺からの墓地移転については、佐竹 伸著「愛に生きて」に「日当たりの悪いじめじ
めした所で、昇がこんな所に眠るのは嫌だと言っており、新しい所を求めた。」旨が書か
れている。また、昇の子孫から「寺院敷地にキリスト教徒(明治35年(1902)に夫婦でキ
リスト教信者になっている)の墓地があることを嫌がる声もあったそう。」との話も聞い
た。
竹島への分骨の経緯について、「日誌 佐竹音次郎」には「昭和5年(1930)4月27日、
宮村家から家兄卯太郎が危篤状態にあるとの連絡を受け、その日のうちに郷里を目指し、
29日に郷里に着き卯太郎を見舞う。5月3日に永眠し、葬儀を済ませ、14日に帰路につく。」
とあり、「高知県人」誌の「佐竹音次郎の碑を尋ねて」(乾 綾雄著)には「この間に自分
の墓を父母の傍らに建てさせてもらいたいとの希望を近親者たちに願い出ると共に市川石
工に相談している。」とある[参考1]。
「自分の墓を父母の傍らに」という願いは了承されたので石工に相談したのだろう。そ
の相談は、当然自分の墓石の注文であったのだろう。更に想像すれば、死はいつ訪れるか
わからないことであることから、石を選び、刻む内容を伝え、代金の支払いも済ませたの
ではないだろうか。分骨された時に置かれたと思われる物は、この昭和5年(1930)に用
意されていた墓石ではないかと想像する。
その謎の墓碑が存在していたとして[参考4]、音次郎の他の石碑「夢の碑」、「辞世
の句碑」も、何時誰が何のためにかの記載の無い、碑を見る人にわかるものにはなってい
ない、自分と相手(竹島の神様、撫松)にのみ分かれば良い性格になっていることから
「佐竹音次郎の墓」或いは「音次郎の墓」くらいが刻まれたものではなかったかと想像
する。
以上は存在自体がわからない中での想像事であるが、ひょっとして今後、墓石或いは写
真や記述物が発見される時があるかもしれない。
▼参考1
「高知県人」誌第43巻1号(1994(H6).1.1発行)26p 「愛の使徒佐竹音次郎 音次郎の碑
を尋ねて(上)」(漢詩人 乾綾雄著)からの引用
音次郎の墓石は墓地山の北端、宮村家代々之塋(えい)域(いき)(墓地の古い言い回し)
の裡(うら)に父母の墓石と並んで侍(じ)立(りつ)(身分の高い人のそばに立つ事)して居
る。碑表には佐竹音次郎仝(どう)(=同/佐竹姓を繰り返し表現している)くま子之墓と
並記するのみで、碑側にも碑陰にも何一つ刻字が無い。仮令(たとえ)、音次郎の墓前を通
る人が或っても竹島には「佐竹」姓は無いのに如何した人だろうと思う位で、歩を停めて
顧り見る人は無い。
▼参考2
竹島墓地の墓石に刻まれている文字(正面以外)
右面
音次郎は竹島に於て、父宮村源左ヱ門母佐雄の四男として元治元年五月十日に生まれ七
歳の時に佐竹家に養子となり明治二十六年医學専門學校を卒業し同二十七年相州
腰越に医院を開業翌年沖本忠三郎次女くま子と結婚す二十九年七月医院内に小児保
育院を設け三十九年神奈川県鎌倉に鎌倉保育園を建設して爾来夫婦協力して専心孤
児達の父母として永眠の際まで終生を子供達の爲に奉仕した
此の間旅順大連京城薹北北京等に支部を設置して異國の不幸な子供達にまで愛
の手をさし延べ、その保護を受けた者一萬二千餘名に及ぶ逝去に当り特旨を以って
従六位を賜る此度生家宮村家の墓地に分骨するに当りこれを記す
昭和四十年十一月六日 神奈川県鎌倉市 鎌倉保育園長 佐竹昇
(改行位置は石碑に刻まれたまま)
背面
長 里子
次女 伸子
三女 花子
四女 愛子
長男 献太郎
(里子の部分は長女となるべきところ文字が欠落している)
左側
音次郎 昭和十五年 八月十六日 永眠
享年七十七歳
くま子 昭和三十四年四月二十六日永眠
享年八十歳
(音次郎の妻の戸籍上の表記は「熊」)
▼参考3
生家に存在する記念碑に刻まれている文字
財団法人 鎌倉保育園創設者
従六位 佐竹翁之生家
侯爵 大久保利武 書
▼参考4
乾綾雄氏は昭和12年(1937)、音次郎の存命中に中村に帰郷した。そして音次郎の訃報は
音次郎逝去の2日後に中村で受けた。綾雄氏はその翌年、分骨され設置されたであろう音次
郎の墓・実物を見たと思われる。ところが昭和41年(1966)には音次郎の娘婿・昇によって
音次郎を顕彰する文字が刻まれた現存している墓石に置き換えられている。平成6年(1994)
に綾雄氏が高知県人誌を執筆した内容は昭和41年以前の墓石の様子を思い起こして記述した
と推測できる。この墓石の違いに気付いて後、音次郎会では竹島墓地の空き地に置かれてあ
る古い墓石を丹念に探し、綾雄氏が見ていたであろうオリジナルの墓石を見つけ出そうと試
みたが、発見には至っていない。また、地元の方の証言によれば竹島墓地は大雨で墓石が流
れた事もあり、その時、音次郎の墓石も被災した可能性もあるらしい。
いずれにせよ、現在の墓石は当初据えられた墓石と正面の文字だけは同様に刻まれている
が、大きさや形を含めて、どのような墓石を音次郎が手配していたのかは謎であり、それが
幻の墓碑として歴史ミステリーとなっている。
▼参考5
熊の命日は日誌では29日とあるが他の文献では26日とあるので26日で表記する。