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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃8┃
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┃別┃冊┃
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【読み物シリーズ 17】
実録・鎌倉保育園佐助ケ谷移転
作:中平菊美
去る6月24日の音次郎史料読み解き勉強会では「音次郎と松」の題で、音次郎が大好きだっ
た松の木に関する記述や資料を取り上げることで、より音次郎の一面を理解する内容でした。
その勉強会で引用した資料整理番号「木箱166-4」の「村田久吉氏からの借用金の證」なる
ものをよく見ていると、これまでに私がとらえていた「500坪の土地」と「土地入手の500円
は銀行からの借り入れ」の解釈が間違っていたことに気付かされました。
音次郎の貴重な歴史的資料の収蔵を受けて取り組み始めた学習会ですが回を重ねる毎に
今までの通念を打ち破る新しい発見があります。今回は「保育の父・佐竹音次郎と言えば
鎌倉保育園」ですが、その成立に関わる実録をまとめたい。
1 鎌倉保育園の成立背景
明治29年(西暦1896)に音次郎は腰越医院を経営する傍ら小児保育院を併設し、子どもを
主としながら家庭生活や地域社会生活ができなくなった人たちを受け入れる複合施設とした。
明治27年に開設した腰越医院の看板の隣に「小児保育院」という看板も掲げたのだった。
その10年後、明治39年に鎌倉町佐助ケ谷に鎌倉小児保育園として移転した。
2 移転の頃の音次郎の状況
改めてこの移転についてまとめるにあたり、この頃、そして、これ以後の音次郎には常人
に理解しがたい行動が多々見られる。そこでまず、音次郎の行動を支えているものが何だっ
たのか、何が彼を取り巻いていたのかを理解しておく必要がある。
明治33年に入り、長年の過度の労働と心労から音次郎は病状を悪化させ、死を覚悟するま
でになっていた。そこで妻熊のすすめにより、11月から翌年4月まで生家(高知県中村の竹島)
で療養生活を送っている。
その際、音次郎はこれまでの自分を振り返り、反省を極める中で、「自分が正しいと思っ
てきたことは神様がそう決めていることで、自分は今、神様の決めたことの実現に努めるこ
とが自分の役目だと示されているのだ」、「それは神様の決定なのだから、できるかできな
いかを自分が悩む必要はない。自分の実現努力で叶わない時には、必ず、神様が手を差し伸
べて下さる」との新境地を得た。この思いの変化が音次郎に健康をもたらせ、鎌倉へ戻って
勉強して翌年、キリスト教信者となり、以後熱心な信者としての日々を送っている。
この新境地こそが音次郎の行動を支えているものなのである。
3 移転の動機
① 明治38年1月27日以後百日咳や麻疹等病気が蔓延し、2月28日にフキ子と3月9日に四女
愛の二人が死亡している。
これは、二人の病死で、「腰越医院内での保育院暮らしが良くない。医院と分離して、
子どもたちが暮らすのに十分な環境の所に移すべき」と決めた。
② 3月11日、転居先を求めて鎌倉へ出向く。
これは、伝染病蔓延につき、既に七里ケ浜など3・4か所を借りて隔離所としていた。
その上での移転探索行動であり、それは愛の死直後の行動で、常人には理解しがたい行動
と思われる。しかし、音次郎としては悲嘆に留まっておられず伝染病の為に分散生活であっ
たことから移転を急いだのであろう。
4 土地を見つけた音次郎
3月27日、音次郎の熱意は遂に彼の理想的な土地を見つけさせ、所有者の村田久吉氏に
相談する。「地は300坪弱。売値は坪4円だが事業に免じ少しは安くする」と回答があった
との事。
4月8日、村田氏と相談し、その地所9畝(せ)15歩(ほ)を1,000円で買い受ける話ができる。
尺貫法で1歩(ほ)は1坪(つぼ)のことで1畝(せ)は30坪でありメートル法では99.9㎡、
約1a(アール)の広さを示す。9畝15歩は285坪(約940㎡)に相当する。
4月13日、日頃の協力者に向けて「医院と保育院を兼務してきた中、2名の幼児が亡くなる。
保育院の50人は分離して良い環境の場所に移転したい。概算5,000円必要だが資金は無く、
心ある皆様の同情にすがる以外無い。保育缶への少額寄付、名家の書画の寄贈、書画の購入
などでご支援を」との内容の「相州腰越小児保育院移転について」と題する協力依頼文書を
出す。
資金が無い中で土地入手に向けて話が進んでいく。これも常人には理解しがたい行動の
一つであろう。
5月23日、蓑田長政氏より藤沢銀行為替で500円の寄付が来る。
5月29日に村田久吉氏と「土地代金千円」との地所売渡約定證を交わしている。
5月31日に村田氏と同道して「土地所有者移転登記申請書」を役所へ出している。申請書
には村田氏から500円を借用という同日付けの「借用金の證」が付けられたようである。
その条件には「抵当に腰越医院を当て、返済期限を同年12月20日とし、無利息」とある。
また、記載は無いのだが、「土地代金千円」の内の別の500円は蓑田長政からの寄付金
(藤沢銀行為替)で、これも申請書に付けられたのかも知れない。
支払先(村田氏)から借金して代金を支払うという珍しい対応である。移転を急いでい
たことから生まれた方法だったのかもしれない。
加えて、別の証書に「右金?元利共領収??明治39年2月14日 村田久吉」(?は未解読
文字)との内容のものがある。「元利」や「返済日 明治39年2月14日」の記載から、借用
期限が切れた段階での返済であり、無利息での返済期限を超過してからはその間の利息も
含めての返済であったのだろうと思われる。
5 移転の資金活動
借用金への返済金の出所の記載は見つけられないが、この頃の収入源の主なものを日誌に
探すと次の通りであり、これらによって返済したものと想像できる。
① 明治38年6月22日、日露戦争の模型展覧会を吉沢商会(園出身須田権太郎が勤務)が開
催し、園が特別入場券(1円)を販売して半額を得ることになる。2,000枚用意したとある。
② 6月25日、伊藤公(伊藤博文)より書2枚、下城先生(下條正雄貴族院議員の事か?)
より画2枚の寄贈。
③ 10月2日、東久世伯より書59枚の寄贈。
④ 10月7日、東久世、杉子、原口、曽祢家2名より書画寄贈。
⑤ その他に寄付金、保育缶、書画会の賛助員への協力も受けている。
6 家屋
『聖愛一路』P.71に次のようにある。
「……こうして集まった天下の名筆二万点は、翌39年の春、音次郎の手によって広く一般に
頒布されたのである。この最初の書画会によって7,000円近い純益を手にした彼の喜びは大
きかった。彼は今さらながら神の恩寵と人の情けのありがたさに泣いた。ほどなく音次郎は、
平塚在から宿屋と庄屋であった2棟を買い受け、佐助ケ谷の敷地に移し建てた。」
家屋に関する一次史料には次のものが存在している。
① 明治39年4月10日 平屋一棟建物送達書、送達料50円、一週間以内に
② 明治39年8月15日 建物売渡契約書、居宅一棟300円
③ 明治39年12月11日 家代金領収書、金250円
新築にしなかったのは、移転を急いだ為であろう。また音次郎はこの頃病気により日誌は
書いていない。
7 移転の実施
『聖愛一路』P.71に次のようにある。
「初夏の海風が軽く頬をなぶり、紺碧の波が岩に戯れては砕け散る。あくまでも青い海原
に白帆が二つ三つ四つ。富士を背にして西方に浮かぶ江の島、あたかも一幅の絵を見るよう
に美しい七里ヶ浜の渚を今しも50人ばかり(児童37人、成人13人)の集団が東へ東へと進んで
いく。……この一行こそ、腰越の里から彼らのカナン(聖書の表現で「約束の地」の意味が
ある)なる鎌倉の新しい家に移りゆく音次郎とその家族の一群であった。時は明治39年5月30日
のこと。小児保育院はここに「鎌倉保育園」と改称されて新しい出発を始めた。」
しかし音次郎は病気によりこの頃の日誌は書いていない。
腰越医院から佐助ケ谷の鎌倉小児保育園に移った音次郎は明治43年7月21日に「土地名義人
表示変更に付き登記申請書」を役所へ提出している。ここで法制上でも鎌倉保育園の佐竹
音次郎が誕生した。
ここを本園とし、行く先々で目の当たりにする子供達を手助けし後に海外5支部を形成
する鎌倉保育園の保育の父・佐竹音次郎が、神様から与えられた使命を遂行しはじめるので
あった。