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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃3┃0┃

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                              ┃別┃冊┃

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【読み物シリーズ 19】

 

            曽祢荒助の記念碑訪問の旅!

 

                                  作:中平菊美

 

展望台から見る江ノ島大橋。干潮時は陸続きになる。

 

 天気予報などでテレビで見ない日が無い程に映し出される神奈川県の江の島。これは江の

島の展望台からの映像で、左手が西浜でその集落は片瀬と言い、右手が東浜と呼ばれ、両浜

共に長い砂浜が続き、関東地方の代表的な海水浴場になっている。長い砂浜続きの地にポツ

ンと存在する江の島は、やはり名勝地と呼ばれるだけの美景を醸し出している。

 

1 はじまり

 7月に、佐竹音次郎の事業を引き継いでいる神奈川県の社会福祉法人聖音会から、今年度

の法人研修会を11月14日に行うので、保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会が近々完成すると

いう冊子「感動を共に!私の佐竹音次郎伝」に関する内容で講演をしてもらいたいとの話が

あり、私と事務局瀬戸氏の両名で対応することにした。

 この機会を利用して計画したことの一つが、佐竹音次郎の「保育事業」に最も協力したと

讃えたい明治38年当時に大蔵大臣であった曽祢荒助の江の島に置かれている記念碑訪問で

ある。

 

2 曽祢荒助の尽力

 佐竹音次郎が角田荘子と共に昭和15年に作成した保育事業45周年記念誌「聖愛一路」

に、曽祢氏の貢献ぶりが記されている。以下の概略である。

 

 明治38年になり伝染病が小児保育院を襲い、4女愛を含む2名の園児が亡くなった。

音次郎は、腰越医院内の狭い保育院での生活が伝染病の蔓延につながっていることを悔やみ、

環境の良い場所に保育院を移転して保育事業に専念すべきだと決意した。

 日頃支援を寄せてくれていた人たちに向けて、窮状を訴え、必要になる資金は無く

援助をお願いする旨の文章を出している。

 鎌倉町で見つけたのが佐助ケ谷の蔵屋敷という地名の約300坪の畑で、蓑田長正と

いう人物からの寄付金500円と地主である村田氏からの500円の借金で購入できている。

 次に家屋である。50人以上が暮らす大家屋であると共に、伝染病等が起きた場合に

対応できる設備も備える必要があることから多額の資金が見込まれた。

 そこで頼ったのは、日頃から支援を寄せてくれていた人たちの中でも、とりわけ中心

的であった大蔵大臣曽祢荒助や侍従長東久世通禧等である。

 曽祢荒助は著名な方々に揮毫をいただき、その販売によって資金を得る方法を提案し、

「自分は二百枚書くから、この方たちを訪ねて百枚ずつをお願いしなさい。」と数十名の

知人の名刺を渡してくれている。伊藤博文、板垣退助、東郷平八郎、渋沢栄一、清浦奎吾、

横山大観、犬養 毅等のものもあったように伺える。

 こうして揮毫のお願いに廻った結果、276名から約2万点の書画が寄せられ、その

一部の販売純益金7000円余により建物ができたのである。明治39年5月30日に移転

がなされ、鎌倉小児保育園として新しい出発となった。

 

3 みつけた荒助の署名

 私も大いに興味を持って調べた経緯がある人物である。そのことに関しては、会報内の

読み物シリーズ第1号でも、冊子“佐竹音次郎調べ20年の足跡(基礎編)感動を共に!

「私の佐竹音次郎伝」”でも取り上げているので、関心のある方はご覧いただきたい。私の

興味の概略は以下の通りである。

 音次郎が明治38年に鎌倉佐助ケ谷への移転の為に、著名な方々を訪ねて書画の寄付を

お願いした際に作った書画寄贈者芳名簿に、発案し一番目に記載したという曽根氏を見つけ

られないという問題があった。原因は全員が個性的な毛筆書きで私には読めないものが多い

ことである。

 それは私だけのことではなかったようで、私が2020年9月12日に芳名簿中に曽祢氏

を発見したことを知った音次郎の子孫のある方は、「曽祢氏発見記念日にする」と喜びを述

べていたということであった。

4 いざ、江ノ島へ

 待望の曽祢氏の記念碑の訪問を行ったのは11月15日(金)である。前日の法人研修会

後の宿泊先海老名から小田急線で江の島に向かう。ちなみに江の島へは鎌倉駅や藤沢駅から

江の島電鉄が出ているし、大船駅からはモノレールも出ている。

 江の島を片瀬側から見たことは何度かあるが、島に渡ったことはなかった。島は岩山で

正面には数棟のかなり大きな建物が見え、左側にはヨットやボートを係留する港と思える

所がある。山の頂上の少し右手にはかなりの高さの展望塔と思える建物が立っている。

 小田急線の片瀬江の島駅からは車でも行けるようだが、景色を楽しみながらゆっくりと

徒歩で向かう。平日の午前中ながら観光客もかなり多いのだが、多数のカラスやトビが住み

慣れているかの風情で通路周辺を飛び交っていた。

 島に着くと、見えていた数棟の建物はほとんどが飲食店や土産物店であった。島奥に向か

うメイン道の両側にはやはり飲食店と土産物店が所狭しに立ち並んでいる。

 30メートル程進むと島の最大の施設と言えそうな江島神社(弁財天)に行き当たり、

そこで道は左右に分かれる。左手の道がメイン道であるらしく島の頂上付近に到り、稜線

沿いに島の右手にある展望塔方面に続いているようである。

 目指す曽祢氏の記念碑は展望塔近くらしいので、右手の道を通ることにした。高知では

見かけない樹木の自然林で覆われた断崖に造られた道で、幅は2メートル足らずのかなり

の傾斜がある曲がりくねった道である。しばらく歩くと人通りが多く、店が立ち並ぶメイ

ン道と思われる道に出た。

 

5 曽祢荒助記念碑

 曽祢氏の記念碑の入口にたどり着いた。案内板の反対側に高さ1.2メートルほどの苔

むした石碑があることに気付き読んでみると、この先に曽祢氏の記念碑があることを知らせ

る碑であった。

 自然林に囲まれた小道を10メートル程上ると道が二股に分かれており、さてどちらかと

林の中を見回すと、左奥に白っぽい大きな建築物が見えた。近付いてみるとそれが曽祢氏の

記念碑であった。てっきり銅像があるものと想像していたのでがっかりしたことである。

 ほとんど人影は無く、15分ほど滞在する間に見かけたのは2名の外国の方だけであった。

 記念碑は直径8メートル、高さ70センチメートル程の円形の土台の中央部に、高さ10

メートル程の四角柱の塔が立ち、曽祢氏の記念碑と記されている。塔の正面下部には曽祢氏

の業績と記念碑設置者名等が詳細に記されていて、碑の背後下部には「大正12年の関東大

震災で破損し修復した」との記載がある。

 曽祢氏は明治43年に亡くなり、翌年に同郷山口県出身の総理大臣 桂太郎がこの記念碑を

建立したのだそうである。記念碑の大きさから、膨大な資金と労力を要したことが想像され、

桂氏の権力の大きさを思うと共に、何故人の寄り付きがたいこの地に記念碑を置いたのかと

の疑問を思ったことでもあった。

 展望塔からの360度の眺めは素晴らしい。眼下に見える片瀬の西浜方面の海上にははっ

きりと潮目が出来ていて、漁にはうってつけの状況と思うのだが漁船が見られない。この辺

の名物の一つはシラスであるのだが、今日は商売になるほどの漁が無いからなのだろうかと

思ったりして眺めたことである。

 テレビでよく目にする神奈川県の名勝地である江の島。やはり外から見るのが一番きれい

である。しかし、貴重な歴史や記念碑や人の生活はテレビでは十分に分かるものではない。

やはり実際に訪ねることの大事さを再確認した今回の訪問であった。

 歩き疲れはしたけれど、目も心も癒してくれた江の島の曽祢荒助記念碑訪問であった。

この旅をもたらせてくれた佐竹音次郎と曽祢荒助に感謝である。

 

6 補足

 計画の第2は腰越の宝善院にある沖本 幸(音次郎の妻・熊の姉で、音次郎に代わり腰越

医院を引き継いだ女医)と父・沖本忠三郎の墓碑訪問。第3は音次郎が曽祢氏の指示で

奉加帳を買いに行った「お江戸日本橋」近くにある和紙販売店榛原(はいばら)訪問。

 江の島の曽祢氏記念碑訪問に続いてそれらも行い、万歩計は18,000歩を表示。足の痛みと

疲労感から「二度といや!」が74才の私の感想となったことである。

 

画像

・曾禰荒助の碑(藤沢市江の島龍野ヶ岡自然の森内)碑文は「西湖曽祢君碑」で、西湖とは

荒助の雅号。

人と比べるとその大きさがよくわかる。

 

・碑文(漢文)

碑文は漢文でチンプンカンブン。乞、翻訳者!

 

・沖本幸記念碑(寶善院内)

当初は山門脇だったが大きすぎるので移設された

 

・日本橋はいばら

音次郎も通った日本橋の「はいばら」を訪問する