┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓
┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
┣━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━┫
┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃3┃1┃
┗━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━╋━╋━┫
┃別┃冊┃
┗━┻━┛
【読み物シリーズ 20】
敬(たかし)と人力にて..
作:瀬戸雅弘
お笑いコンビ・ナイツの漫才に昭和時代のアイドル歌手グループ・キャンディーズ解散
の事に触れるネタがあります。ボケ担当の塙が「解散コンサートは4月4日の事ですが、私が
生まれたのはちょうど1週間前の3月27日ですので、その時のことをハッキリと覚えています」
と言うと、ツッコミ担当の土屋が「すごいですねぇ~」と答えます。
時代を物語る生き証人の話というものはとても貴重です。近代の歴史であれば証言もまだ
ギリギリ取材することが可能でしょう。しかし、たといそうでなくても、文献が残っておれ
ばそこに刻まれた言葉から感じ取ることも可能でしょう。歴史ロマンがそこにはあります。
読み物シリーズ20回記念として、現実とロマンの保育の父の歴史奇譚のはじまり、はじまり。
1 きっかけ
音次郎と中村・紺屋町との人脈を探っている時に偶然ある記事に目が留まりました。音次
郎の帰りを迎えるために鎌倉駅まで妻・熊と共に孫の昭子、敬が来ていたのです。そこで音
次郎は敬と2人で人力車で保育園へと帰っていったのです。
昭和13.12.18 日 晴 (この日の記録は原本のみに存在)
在鎌倉 朝如常 以西結書(旧約聖書のエゼキエル書の事) 祖母祈る
祖父、祖母、伊東姉 亀姉日基に行く。園父、園母、須田兄メソジストに行く。
午後祖父は上京す。(荒井医院、医伯に面会す)木村久雄(浅草区永住町四十八番地)方
に岩﨑氏の杖を受取りに帰途に就く鎌倉驛にて園母と共に昭子、敬に出會ひ、敬
は祖父と共に人力にて帰園す。
祖父は教會の帰り横田翁に筆を届ける。
2 孫サービスをする音次郎
ここに登場する昭子、敬とは、音次郎の次女・伸と夫である昇の三女・昭子(2021.3没)と、
三男・敬の事です。男の子である敬に対して音次郎は普段は徒歩で通う保育園から駅までの
道のりを人力車に乗せてあげたのです。敬少年6歳3ヶ月の時の話です。
音次郎最晩年にあたるこの頃は、音次郎は鎌倉に在って辞世の句の準備をしたり松の木を
手入れしたり、比較的穏やかに趣味の時間を取る事もありましたが、先に引用した日誌原文
でも読み取れるように支援者への挨拶回りなどの用務もこなしていた事が見えます。
孫を喜ばせてあげようと人力車に2人で乗る音次郎は、どこにでも居る好々爺の姿と同じ
です。
3 駅から保育園の道のり
人力車に乗った距離感を見ておきます。当時の鎌倉保育園の場所も鎌倉駅の場所も、現在
と同じです。しかしその道のりは違っています。
現在、鎌倉市役所のすぐ西側には御成隧道(おなり・ずいどう、トンネルの事)が貫通し
ています。市の記録によれば完成は1962(昭和37)年。延長 44.9m、道路幅10.8mでした。
その後、
1999(H11)年に市役所側の入口を修復する形で10.0m延長され、今の、途中で継ぎ接ぎした
形のトンネルになっています。
この付近は御成という地名ですが天皇家の鎌倉御用邸があった場所で、現在の御成小学校
校舎は当時のままの様子を保っているとの事です。このトンネルを掘る工事は貫通した昭和
37年までに実施されたことでしょうが、工事中は付近の住民から騒音やトラックの頻繁な
通行に対する苦情が出たそうです。
市役所の前には現在、スターバックスが存在していますが、この場所は横山隆一自宅で
ありました。庭は当時のままとの事です。横山氏は「福ちゃん」などを描いた漫画家で、
高知県出身です。音次郎とは同郷のよしみである横山が「この開通するトンネルの先には
子供の施設があるのだから、子供たちの為に、工事をさせてやってくれよ」と、仲裁をした
というエピソードがあると聞いてます。
音次郎が敬少年と人力車に乗った日、さすがにこのトンネルは開通していませんでした。
しかし鎌倉にはこの地域特有の砂岩層の尾根をくりぬいた小隧道が複数あります。この御成
隧道の北側には佐助隧道があり、1921(大正10)年には既に開通していたそうです。音次郎
達はふだん、このトンネルを使っていたと見られます。
4 この日の音次郎の行動
ちなみに、この日の音次郎の行動についても見ておきましょう。
音次郎夫妻と共に日曜日の礼拝のためにキリスト教会に行った女性の1人(亀姉)は、
紺屋町佐竹家で音次郎の後に養子に入った楳吉(うめきち)の娘・亀尾のことで、直接血は
繋がっては居ませんが、戸籍の上では姪にあたる女性です。
日誌の最後の1行にある横田翁とは、その音次郎の紺屋町時代に中村小学校で机を並べた
同窓生・横田金馬です。音次郎は金馬の提言により八束の宮崎家から出て、高知へ、そして
東京へと出て、活躍することを決意したと、金馬の音次郎への追悼文から読み取る事ができ
ます。金馬に筆を届けた、とあるのは、音次郎が鎌倉保育園の子供たちへの養育費を捻出す
る為にはじめた慈善書画会に出品してもらう作品を金馬にもお願いしていたことが覗えます。
5 人力車の後日の音次郎
金馬の話をしましたので、この後の日の音次郎と金馬のことについても少しだけ触れてお
きます。年が明けた頃から(人力車に乗ったのは12月18日でした)金馬は体調を崩し、風邪
をこじらせて肺炎を患った事が日誌に書かれています。その間、音次郎や熊、姪の亀尾が見
舞ったり付き添ったり、熊に食事を運ばせたりしていた事が書かれています。また、金馬夫
人から熊が書画を預かって帰った事もあります。音次郎のきめ細やかな交流ぶりが読み解け
ます。
音次郎と横田金馬との交流やその関係性については、別の読み物シリーズでまとめた方が
よさそうなので、今回はここで止めておきます。
6 遺された文献と生き証人の話
前号でお話ししたとおり私達は2024年秋、鎌倉を訪問しております。その時、人力車の敬
少年に、その生き証人としての話を聞こうと尋ねましたが、残念ながら6歳3ヶ月の頃のこの
話は覚えておられないとの事でした。ここまで読まれた多くの方は想像されていたでしょうが、
この敬少年こそ、鎌倉保育園の後身である聖音会綾瀬ホームに今も現役でお勤めでいらっ
しゃる佐竹敬氏であります。御年93歳、その快活で朗らかなご様子は日誌にある通り音次郎
の寵愛を受けてすくすくと元気に育たれたのだろうと想像します。
先に触れました金馬と音次郎少年が机を並べて勉強していた頃、金馬は音次郎の硯を誤っ
て壊してしまいますが、金馬の証言では「その時の少年音次郎はやさしかった」と弔辞に書
いています。貴重な少年音次郎のエピソードが文献として遺されているのです。
生き証人の話は、時代が進むにつれて減ってきて遂には誰もそれを直接見た人は居なく
なってしまうでしょう。しかし、文献の中に刻まれた言葉は、DNAが遺されるように、
後にそれを読み解くものの目の前に生き生きと現れるのです。それはまるで千年以上も前の
大賀蓮の種が再び花を咲かせたかのように。
敬少年と音次郎が人力車に乗った日、佐竹家の家庭礼拝ではエゼキエル書が開かれたとも
記録されています。それが何章だったかまでは記されていませんが、エゼキエル書には枯れ
た骨に神の息吹が掛けられて、それが生き返って人の姿になるという比喩的な夢が書かれて
いる有名な物語が存在します。
同じように保育の父・佐竹音次郎の生々しい人としての姿は、音次郎を学ぶ中にいつでも
よみがえる事が出来るでしょう。故郷を愛し、人を愛し、子供を愛した音次郎の思いは、
いつでも息吹となって現れます。その音次郎の思いに心震えさせられた現代の私達は、
よみがえった音次郎の生き証人となっていくのです。