保育の父 佐竹 音次郎
村にある古い松の木をじっと見上げる少年がいる。少年の名は佐竹音次郎。音次郎は、辛いことがあると天高くそびえるこの松の木を、時には願いを込めてじっとながめ、時にはそっと語りかけ、心を落ち着けていた。音次郎の心を松の木は知っていたのかもしれない。
この少年こそが、後に「保育の父」と呼ばれ、児童福祉の先駆者としてその発展に貢献することとなる人物であった。
佐竹音次郎は、今から百五十年ほど前に、下田村(現在の四万十市)の農家、宮村家の四男として生まれた。貧しい暮らしの中で多くの子供を育てることができなかった時代、音次郎は中村町(現在の四万十市)佐竹家へ養子に出された。音次郎、七歳、父母の手のぬくもりを感じはじめる頃のことであった。
佐竹家の養子となった音次郎であったが、年月の流れの中で養母と別れ、養父と二人で暮らすことになる。そして、家業の手伝いのため、あんなに好きだった寺子屋へも通えなくなり、次第にやつれていく。そんな音次郎の様子を見かねた実の父母は、音次郎が十三歳のとき、学校へ行かせようと下田村へ呼び戻した。ところが、父は家業を覚えさせるため、音次郎に学問を禁じ、十五歳となった音次郎は学校を止めて、農作業を手伝わなければならなくなった。学問の道を諦めきれずに、日に日に体を弱らせていく音次郎。父は、その様子を見て、農業を教えることを諦め、とうとう音次郎が勉強することを許した。
喜んだ音次郎は、勉強に励み、二十三歳のときには東京の小学校に勤めるようになった。「困っている人たちや恵まれない人たちを助けたい」といの天職に向かっての思いを教員という一つの形として実らせていく。しかし、そこにとどまらず更に勉学に励み、二十九歳で医者となって神奈川県で医院を開設した。
ある日のこと、音次郎の医院に、幼い子どもを連れた母親がやって来た。
「肺がかなり弱っていますね。このままだと娘さんにまで病気が移ってしまうかもしれない。すぐに入院をしてください。」
うなだれて聞いていた母親がぽつりとつぶやいた。
「先生・・・・・・、私は夫を亡くし、頼るべき親、親戚もおりません。」
母親の目から涙がこぼれ落ちた。
「私が入院をしたら、一体、この子はどうなるのでしょう。」
音次郎を真っ直ぐに見つめる母親。その細くなった手は、娘の手をぐっと握りしめていた。音次郎は一瞬だけ目を閉じてきっぱりと言った。
「――私がお世話をしましょう。」
音次郎に迷いはなかった。
このことがきっかけで、音次郎はけがや病気を治療するだけでなく、様々な事情から困って訪れてくる子供たちを助けるようになった。
「すでに我が家に受け入れたからには、自分は彼らの父であり彼らは自分の子どもである。そうすると、彼らはもはや孤児ではない。立派でもないかもしれないが、自分という親ができている。彼らはもう孤児とは呼べない。」
当時、親が世話のできない子供を預かる施設を、「孤児院」と呼んでいたが、音次郎は「孤児」としてではなく、家族の一人として預かり、我が子と分け隔てなく育てたいと考えていた。こうした考えから、音次郎は、「保育」という言葉を使って、「小児保育院」を医院に併設した。現在、児童養護施設と呼ばれるものの礎である。
その後は、こうした音次郎の活動の話が広がり、大勢の人が音次郎を頼ってくるようになった。子どもたちが増えていくにつれ、医院での収入だけでは子どもたちの世話も生活も苦しくなり、音次郎はお金の工面に奔走しなければならなかった。こうした苦しい時期に、音次郎は、我が子を病気で亡くし、自身もひどく体調を崩して、一時、生死の淵をさまようことになる。しかし、その苦境の中にあって、音次郎の天職に向かって邁進する思いは、暗い夜が明けるかのように、ついに開けていく。
「保育院での仕事こそが自分に与えられた使命ではないか。命あれば、困っている子どもたちを育てること、このことに自分の生涯を捧げたい」と。
この思いが音次郎に生きる希望を与え、病状はみるみる快方に向かっていった。
神奈川に戻った音次郎は、医院での仕事を止めて、鎌倉に「鎌倉保育園」を設立し、困っている子どもたちを受け入れ、育てることに専念するようになった。その音次郎の態度は、園の子どもたちのどのような言動も、それが例え他の人に迷惑をかけるものであったとしても、
「全て園父たる私の責任です。」「親が子供を見放すということはありません。」
と、我が子を胸に抱き守る実の親のそれであった。
音次郎は生涯、子どもたちに差しのべたその手を離すことはなく、昭和十五(一九四〇)年に七十七歳で亡くなるまでに、外国の子どもも含めて五千五百七十一人の子どもを育てたと言われ
ている。
亡くなる前年、帰郷した音次郎は、郷里の「松」の傍らに歌碑を建てた。
「己れ死なば死骸は松の根にうめよ わがたましひの松のこやしに」
ただ一筋に、どんなときにも、どの子にも分け隔てなく愛を注ぎ、そのぬくもりを伝え続けた人。郷土の偉人、音次郎は、その遺言によって、故郷、四万十市竹島の父母のそばに眠っている。
本文は2018(H30)年 高知県教育委員会発行 小中学校道徳副読本「高知の道徳」より抜粋