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四万十市竹島出身・郷土の偉人

TEL. 0880-33-0247

〒787-0155 高知県四万十市下田2211 若草園内

佐竹音次郎と鎌倉保育園の概要

(注)敬称略であることをお許し願います。

1 幼少の頃

1864(元治元)年5月10日、下田村竹島の農家に生まれる。父は宮村源左衛門、母は佐雄。その四男。
長男は卯太郎10才、(昭和5年5月3日78才で逝去。娘寅野と八束村乾貞之助の子に「佐竹音次郎物語」「愛の使徒佐竹音次郎」の著者乾綾雄氏有)。次男と三男は5才の双子で、成人して徳治は宮村家の、仙次は西内家の養子となる。3才下に妹がいたが幼くして亡くなった。祖父母は銀之丞とやくだが、音次郎出生の時点では祖母は亡くなっていたようである。

当時、地域は貧しく、養える子どもは男二人・女一人が限度であり、間引きの習慣があった。しかし、三男は双子であり難を逃れ、四男の音次郎は母が33才の厄年だったために難を逃れることになった。当時の下田村は戸数100戸足らずで、その暮らしは他家同様決して余裕のあるものではなく、父母は農業に精出す毎日であった。母は信仰に厚く、大変慈悲深い人であったそうで、郡長より表彰を受けた程である。そういう母の影響は大きいものであったろう。困ったお遍路さん等を見かけると、「母さん、何とかしてあげて。」と言う音次郎だったそうである。
やがて妹が誕生したことによって、ありがちなように父母の愛情は妹に向けられ、寂しい思いをすることになるが、祖父に甘えて寂しさに堪えたそうである。

音次郎はワンパクというよりやや大人しい類の子であったようで、悲しい時には地域にあった松の大木を仰いでは自らを慰め、また夢を広げていたそうである。(音次郎は、この松を撫松と呼び、書号にもする程にこよなく愛し、辞世の歌もこの松にちなんだものである。その松は、享年77で逝去する前日の昭和15年8月15日に地区民の失火により焼失した。松の傍らには、昭和14年9月、墓参の為に初めて妻くまを伴って帰郷の際に辞世の歌碑を建てた。碑はその後、道の拡張等から少し離れた現在の場所に移動した。)


↑竹島神社の夢の碑  兄卯太郎の援助で境内に設置したようであるが、時期なども含めてまだよく分かっていない。

2 養子から上京まで


1871(明治4)年、7才の時に、生前からの約束で、親戚にあたる(従兄とある)中村町染物業佐竹友七夫婦の養子となる。家族から離れることの悲哀は大変なものであったろうが、父母たちに、特に祖父に心配をかけまいと、笑顔で家を後にしたと言われている。中村町での生活では、当初は寺子屋に通わせてもらって楽しい日々が迎えられていたが、1876(明治9)年、風紀の乱れが著しい町にあって、養父母は離婚をする。夫婦の不仲から離婚に至るまでの間の音次郎の気遣いと心労は大変なものであったことだろう。

離婚後は養父と共に生活をしていたが、音次郎の精神的な消耗を見かねた実父母が、「小学校に通わせてあげるから」と実家に呼び戻している。音次郎13才である。13才で1年生となった音次郎は、大好きな学問に日々をおくれたことで、大変に幸せな瞬間であったろう。しかし、成長してきた音次郎の今後を考えた父は、農業しか無い地域であるので農業を教えなくてはならないと決して、1878(明治11)年に通わせていた下田村立尋常小学校を退学させた。父母、3人の兄たちと共に農業にあたることになった音次郎だが、兄たちの屈強さに比べものにならない体質の上に、センスもなかったのであろう。何時も叱られ、何時しか皆から疎外され、病気に陥ってしまう。

疎外感の日々の中で、16才の音次郎は、自分には他の者では代われない価値が有るとの心境に至る。しかしながら、そんな自分のことを父母はじめ誰も理解してくれないことに焦燥感を持ち、自分の考えの表明を分かってもらうには、農業であるなら大農家になるとか、人から尊敬される人物にならなくてはならないと結論する。しかし、そういう人物になる方法を思い付かず、竹島神社に神の導きを求めて丑の刻詣りをする。「もし願いを聞いてもらえれば、お礼に石の鳥居を建て、30才までは女に触れない。」との約束を持ってであった。三日目の夜に「神様が鎮座しているという所の扉を開いて見たら、そこには何も無い」夢を見た。考えた末に、「これは、神が、他人を頼むな。自分の実力を養えと教えているのだ。」と解釈し、力を得たのであった。音次郎はこれを「霊夢」と呼び、以後は夢に従って生涯をおくることとなる。

音次郎18才になり、ついには父も農業には向かないとあきらめ、音次郎の好む勉学を許した。そこで、すぐに小学校教員の助手となり、やがて独学で正教員の資格を取得している。すっかり病気も治っていた。新しい納得のできる生活が始まったのも束の間、1885(明治18)年に八束村の某家から婿養子の話が来た。音次郎は、神社への約束を理由に断わるのであるが、父母の強い願いで、ついに不承の婿入りとなる。1子(日誌で、後に大連で交流が見られる。)を授かりながらも、望みとした生き方に反した今に悩み、ついに離婚をする。そして1年間海南学校(土佐山内家設立の私立学校)に学んだ後、上京することとなる。

3 上京から小児保育院の頃

軍人になろうと上京した音次郎であったが、23才という年令では果たせず、蕨岡伊才原出身で豊島郡長桑原戒平(中村市史に略歴紹介有)の推薦により東京府巣鴨尋常小学校校長となる。しかし、1年後の1890(明治23)年、幼児教育には誰も取り組んでいないが、一生の基礎となる時期の教育は大事であるので、それにあたりたいと考えて退職し、設立資金の確保上から明治法律学校へ入学すると共に、生計を立てる為に下宿屋をしている。しかしまた、人生の目的である「聖人」を目指した生き方をする者の職業としては、「医は仁術」の医者が良いと考えるようになり、医学専門学校済生学舎に入学し直している。

3年後の1893(明治26)年に卒業し、山梨県立病院に就職する。彼、30才である。この時、研究をと済生学舎に残った同郷出身の友長岡に仕送りをしている。こうした友達思いの音次郎であり、後年、友からの支援は絶大なものとなる。翌年夏、退職して神奈川県腰越に「腰越医院」を開業する(夢に、亡くなった父が現われ独立開業を勧められたことによる)。(山梨を去るに際し、山梨県立病院勤務時の患者で親しくなった林紋治郎の妻友恵から「キリスト伝」と「新約聖書」が送られた。)

1894(明治27)年1月2日、父源左衛門が67才で逝去した。
1895(明治28)年、音次郎32才の時、友人安岡友衛の世話により、下田村鍋島出身で熊本県の警察勤務であった沖本忠三郎の次女、くま19才と結婚する。

ある日、直ちに入院を必要とする母親の患者があった。しかし、その者は幼いわが子を預かってくれる身寄り・知人がないと困り果てる。そこで音次郎は自分が預かることを申し出る。この対応から1896(明治29)年7月20日、「小児保育院」を併設することになった。(これが鎌倉保育園の前身である。)他人様の子を預かるについては、わが子同様に見做すことを尊び、従って孤児ではないと考え、当時用いられていた用語である「孤児」を嫌い、「保育」という施設名を考えだしたのであった。

この年、長女里が出生している。そして、2年後に次女伸、その次の年に三女花、3年おいて四女愛子と出生している。またある時、事情があって結婚できない恋中の女性があり、しかも臨月間近で困り果てているという男が、人の噂でここに相談すれば何とかしてくれるのではと聞き及んで訪れてきた。このようにして園は、子どもだけでなく、困っている者全てを受入れるようになっていく。多勢になっていく家族や保育院児等を吾が医業収入だけで賄うことは困難を極めるようになる。心身の疲労が積もって、1899(明治32)年頃から体調を崩し重病化していき、妻くまのすすめで1890(明治33)年11月から生家で療養生活を送っている。死を覚悟した音次郎は自分のこれまでを振り返る中で、「保育院の事業は神の思し召しによるものであり、自分はその代行者である」旨の悟りを開き、信じがたい回復を得て翌年4月に鎌倉に戻っている。
 
この頃、先に林 友恵からいただいていた「キリスト伝」と「新約聖書」を再度手にし、津田 仙の導きを受けている。そして1892(明治35)年に山鹿旗之進により夫婦でキリスト教の洗礼を受け、以後、小児保育院の日課にキリスト教諸行事が入るようになった。また、この年、前年6か月にわたる療養生活をもとにして書かれた家庭医書「結核征伐」が出版されている。

1905(明治38)年、施設も経済面も不十分な状態の中、四女愛子と院児1名とが流行病の為に死亡する。ここで音次郎は事業に専念することを決意し、医業は妻くまの姉沖本 幸(中村市史に略歴紹介有。大正12年9月の関東大震災で死去)に譲り、1906(明治39)年5月20日に鎌倉佐助に移転し「鎌倉小児保育園」と改称した。この年長男献太郎が誕生した。

鎌倉への移転については、土地は蓑田長正からの寄付金500円により500坪を入手。施設の建築については、困り果てた末に、子爵秋月新太郎(書号は古香)の紹介で知りあい、1902(明治35)年にも揮毫により窮地を助けてもらった子爵曾根荒助宅を訪れる。曾根をはじめ、伊藤博文、山縣有朋、板垣退助等多くの者から2万点にのぼる揮毫寄付があり、その売却収益7、000円余により実現の運びとなったものである。

1909(明治42)年、感化救済事業奨励金を受け始める。
1910(明治43)年3月20日、流行病の為、長男献太郎が3才8か月の幼い命を絶つが、園児50名は絶対平等の取扱であり、母くまにわが子の看病に専念することが許されたのは、亡くなるわずか3日前であった。くまは苦悩し、翌年4月16日までの10か月家を出たが、日能光子の仲介で戻る。

聖愛の下に、わが子も誰彼の子も同様に扱うことは、普通ならば注げるわが子への愛情を、形としては示せないことになる。わが子の看病に十分にあたれなかった母くまの苦悩が為さしめた行動であったのであろう。


↑ 腰越医院  ここに小児保育院が併設されたことが鎌倉保育園のはじまりとなる。

4 終戦まで

園は常に経費不足で、揮毫の展覧会が大きな収入源であった。展覧会をと訪れた旅順の子どもたちの多くが孤児同様である状態から1913(大正2)年4月30日ここに支部を設立(広田兵吉、須田きん子夫婦)。また同年8月12日京城にも支部を設立する(須田権太郎、戸倉豊子夫婦。大正9年に曽田嘉伊智)。この年、音次郎は地方事業功労者として表彰されている。

1915(大正4)年、長女里が結婚した。また、この年、音次郎が三女花を伴って訪れた台北(友人で医師の相沢千代吉をたよった)では、幼児売買が盛んであることから、ここにも支部を設立している。この年5月13日には賛助員を募るために郷里にもどっている。その翌年には旅順支部で乳児保育を開始したり、翌々年の1917(大正6)年3月10日には台北支部に私立「愛育幼稚園」を設立するなど、場の窮状に添って事業を起こしている。この年8月18日に母佐雄が87才で逝去し帰郷している。翌年には鎌倉保育園大連分園を設立している。

1920(大正9)年1月19日、音次郎の念願であった園の法人化が、周りの多くの反対がある中で決定となった。事業は神のおぼしめしによるものであり、私的なものではないとの考えによる。また、急いだのには、周囲に「事業は自分の財産」と考える者がいることを認知したからとも言われている。ここに財団法人「鎌倉保育園」と改称される。この年5月6日に賛助員を得るために帰省している。翌年、次女伸が井東 昇(後、佐竹に)と結婚する。

1926(昭和元)年、三女花が八束村の間崎齋吉(後、佐竹に)と結婚する。この年音次郎は神奈川県知事表彰や慶福会終身年金を受けている。また1928(昭和3)年には藍綬褒章を授与され、これを祝って、園出身者による「園の友会」が発足した。

1930(昭和5)年、音次郎は理事を曽田嘉伊智に譲り(神の事業に世襲があってはならないと考えて、佐竹 昇にならないように配慮した。)理事補となるが、曽田理事が京城を離れず音次郎は代理を頼まれて本園で業務を行う。翌年、代理を辞し、長女里と共に旅順支部に着任する。代理は佐竹 昇が継ぐ。また、この年、卯太郎が死去し、音次郎は帰郷しているが、自分の墓を父母の側に作りたいと親族に願い出、石工にも相談している。分骨がなったのは昭和41年4月である。

1933(昭和8)年に神奈川県社会事業協会評議員委嘱。1935(昭和10)年に社会事業功労者表彰。1936(昭和11)年に国際社会事業会議日本国内委員委嘱。この年、佐竹 昇が理事となり、音次郎の長兄卯太郎の孫で音次郎の下にあった乾 綾雄が大連分園の勤務をもって退職し、郷里で教員の道を歩む。(乾氏は、大正2年八束の生まれで、旧制中学校2年時の大正14年から音次郎と起居を共にしており、昭和6年からこの昭和11年まで大連分園にあった。昭和46年に教員を退職した後、昭和54年に音次郎を世に出そうと著書「佐竹音次郎物語」「愛の使徒佐竹音次郎」を出版した。また、平成4年7月から平成7年5月までの月刊全国高知県人連絡誌「高知県人」に音次郎シリーズを連載してもいる。平成17年3月に逝去。)

1938(昭和13)年9月21日、北京支部を設立。この年11月12日に音次郎の作品を太田水穂が添削した辞世の歌「己れ死なば死骸は松の根にうめよ、我がたましひの松のこやしに」ができ、鎌倉保育園門前の佐助川河畔に碑が置かれた。

1939(昭和14)年、創立45年史編纂の準備の為、及び最後の先祖墓参にと、初めてくまを伴って帰郷し1週間あまり逗留している。この際、郷里の「松」に最後の別れを告げ、記念にと傍らに歌碑を置いた。また、この年、神奈川県社会事業特別功労者(紅色褒状)に選ばれている。

1940(昭和15)年8月16日、音次郎77才で死去。この年、45周年記念誌として、音次郎の生涯を書いた日能光子著「聖愛一路」が出版された。 


↑ 辞世の句に詠まれた老松  音次郎が逝去する前日に消失した。竹島集会所にも句碑がある。


5 音次郎亡き後の鎌倉保育園
(※参考までに簡単に紹介します。)

1946(昭和21)年に全ての支部の引揚が完了。
1948(昭和23)年に鎌倉保育園は「児童養護施設」として認可され、成人部の生活保護部と乳児部が新しく作られた。生活保護部は「救護施設」となり、綾瀬ホームに発展していく。

●郷里の方では、1957(昭和32)年に、佐岡に高知慈善協会経営の児童養護施設若草園が開設された。園長は鎌倉保育園台北支部愛育幼稚園に勤務していたことのある西 久子である。

1961(昭和36)年、救護施設は分離し「綾瀬分園」となり、1963(昭和38)年に「綾瀬ホーム」と改称する。翌年には救護施設から精神薄弱者援護施設と変更認可される。

●1966(昭和41)年、財政難から存続が危ぶまれるようになった若草園は、西園長たちにより鎌倉保育園に分園化を願い出て、社会福祉法人鎌倉保育園中村支部若草園となった。1996(平成8)年、社会福祉法人栄光会若草園として独立し現在に至る。

2002(平成14)年、法人名が「聖音会」、施設名が「鎌倉児童ホーム」と改称されて現在に至る。

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<手にした資料>
 ・聖愛一路(45周年記念誌、日能光子著、昭和15年)
 ・創立70年史(高橋芙蓉編、昭和40年)
 ・日誌佐竹音次郎(創立80年記念誌、昭和50年)
 ・愛に生きて(創立90年記念式典講話、佐竹 伸著、昭和61年)
 ・若草園創立30周年記念(社会福祉法人鎌倉園中村支部若草園、昭和63年)
 ・年表と写真に見る百年史(創立100周年記念誌、平成8年)
 ・新版聖愛一路(高田 彰著、平成14年)
 ・愛の使徒佐竹音次郎(乾 綾雄著、昭和54年)
 ・佐竹音次郎物語( 同上 )
 ・高知県人(平成4年〜平成7年分の佐竹音次郎シリーズ、乾 綾雄執筆)


↑ 旅順支部  ここがはじめての海外拠点となった。


↑ 京城支部


↑ 台北支部


↑ 大連・北京支部


↑ 竹島神社の夢の碑  兄卯太郎の援助で境内に設置したようであるが、時期なども含めてまだよく分かっていない。


↑ 鎌倉保育園中村支部若草園として移転新築された若草園旧園舎(四万十市下田)
 
 
※このレポート『佐竹音次郎と鎌倉保育園の概要』は、
2015年保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会発足記念講演会で講演して下さった
中平菊美氏のご厚意により提供して頂きました。


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事務局

四万十市立中央公民館内
「保育の父・
 佐竹音次郎に学ぶ会」

連絡先

〒787-0155
高知県四万十市下田2211
若草園内

TEL 0880-33-0247



かっこいい毛筆書体で音次郎会と書かれてあります。 題字:林 博氏