┏━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┳━┓

┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

┣━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━╋━┫

┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃0┃

┗━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━┻━╋━╋━┫

                              ┃別┃冊┃

                              ┗━┻━┛

【読み物シリーズ 7】

 

    音次郎人生最大のカベとその克服

 

作:中平菊美

 

 明治29年(1896年)に小児保育院の看板を腰越医院に掲げて保育事業が始まります。当

時、わが国には福祉政策が育っていない時代で、全て個人の力によるものでした。

 音次郎の保育院の話を聞き頼ってくる人が増えるにつれ、生活費不足という現実が訪れ

ます。「困っている人は皆、助けたい」という理想と「生活費不足」という現実で悩むば

かりか、生活費を得る為の昼夜を問わない労働により肉体は弱り、ついに風邪から肺炎そ

して結核にと悪化して死を覚悟するまでの状態に陥ります。また受け入れた子どもたちを

どう育てるのかも重大な悩みでした。

 この三重苦が音次郎を襲い、心身の消耗を見かねた妻の進言により、明治33年11月

から翌年4月までの約半年を生家で療養しています。

 死をも覚悟し絶望的な心持ちにあって、音次郎はこれまでの生き方を見つめ直すことに

なります。

「何事も自分で出来るかの如く歩んできたが、満足できることは何事もなし得ていない。

自惚れと謙虚さに欠けた自分であった。わずかに大事だと考え出したつもりの保育事業も

同様である。そもそもそれを大事だと決める力など自分に有りはしないのだろう。しかし

何故力にも無いことを大事と思い込んだり、できもしないことに手を染めるようになった

のだろう。」そんな繰り返しの日々だったのではないでしょうか。

 これこそ、音次郎の人生における最大のカベです。

 

 自尊心をはじめ自身の一切を投げ捨て、赤子のような解放された状態になった時、光が

射しこんできています。悩みを解消に至る新たな考え方が舞い降りてきたのです。

「保育事業が大事だと決めているのは神様で、私が考えついた様にしつらえられているの

に違いない。私には神様の決定を実現するために働くことが役目だと言っているのだ。私

の努力でどうしようもない時には神様が必ず助けてくださる。」そんな考え方が体を満た

し、音次郎の悩みのほとんどが不必要なものとなり消え去っていきました。

 同時に、「神様の御心に従い全身全霊を傾け働く」ということを書いた本のことを思い

出します。山梨県立病院を退職する際に、患者で仲良くしていた林紋次郎の妻で熱心なキ

リスト教徒であった友恵から餞別に贈られた本、聖書です。

 この時に聖書を読んだ音次郎は「自分のような者を守ってくれる他に代わる物の無い本

である。」との感想を述べています。

 また、聖人の生き方を目指した音次郎は孔子や釈迦についても熱心に勉強しており、キ

リストを含む三聖人を冨士山になぞらえて「孔子は山の裾野、釈迦は山にかかる白雲、キ

リストはそびえたつ山の頂」とも表現しています。

 音次郎が求める聖人にキリストが最も近いということ、或いは、キリストの考えが最も

理解出来たということであろうと思われます。

 かく新たな考え方ができたことにより、悩みの大半が消え去ると共に、聖書という生き

方を教える貴重な教科書が見つかったことにより、死をも覚悟した体調は信じられぬ速さ

で回復していきます。

 鎌倉に戻るや、聖書に向かうと共に宣教師ピータソン女史や津田 仙たちに教えをいた

だき、明治35年6月16日に鎌倉教会において牧師山鹿旗之進により妻と共に洗礼を受

けています。そして以後はキリストの教えに学びながら保育事業にまい進していきます。

 ここに音次郎の人生最大のカベの克服が果たされたのです。

 

 付属事ですが、現在元竹島神社の境内に「夢」一字のみの石碑があり、この石碑につい

ては乾 綾雄氏が著述しているのみで、母寅野(音次郎の兄卯太郎の娘)から聞いた話と

して、「半年に及ぶ郷里での病気療養の際に、竹島神社の神様の恩愛に対するお礼として、

兄卯太郎の援助を得て建てた」との内容になっています。

 この「夢の碑」にかけた音次郎の思いを推察する場合、上に述べた最大のカベの克服を

考えに入れるべきではないかと思うことです。つまり、17才の頃に丑の刻詣りで大事な

教えをいただいたことに対する竹島神社へのお礼の気持ちからと言うより、改めて神様の

教えに従ってこれからを生きていくという覚悟を表明したものではないだろうかと思える

のです。詳細については機会があれば別途読み物シリーズに取り上げてみたいと思います。

 

 

音次郎が執筆した結核征伐

音次郎の著書「結核征伐」の表紙。赤い十字架があり、デザインされた題名は細菌のような模様もある。相模・腰越・小児保育院蔵版。表紙の色はクリーム色。

 

音次郎が開業した腰越医院

2階建ての洋風な真四角の建物。屋根の軒下は狭い。左側の玄関部分が1畳ほどポーチになっている。中央に看板があり「内科、小児科、腰越医院」とある。その前に多くの人が並んでいて、何かの記念撮影と思われる。この写真は既に佐竹音次郎から義姉の沖本幸に譲られた時の写真で、看板の医師名が彼女になっている。

 

腰越医院内に併設する形で事業が開始された小児保育院

最初期の家族写真の一枚。明治35年頃。腰越医院の中庭。右手に増築された小児保育院らしき建物が見える。鬱蒼とした庭木の前で38人の大人と子どもが整列している。