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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃1┃

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                              ┃別┃冊┃

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【読み物シリーズ 8】

 

学制150年と音次郎の勉学

 

作:瀬戸雅弘

 

 今年は1872(M5)年に学制発布されて150年です。この年は中村小学校が開校した年で

もあります。保育の父・佐竹音次郎はその前年、紺屋町へ養子に出されていました。そ

の音次郎は中村で寺子屋に通いましたし、竹島の実家に戻ってからも竹島小学校に通い

ました。その後、鍋島小学校(既に廃校)の訓導(今で言うところの学校の先生)にも

なりました。音次郎の「勉学」との出会いはその後の音次郎の人生にどのような影響を

与えたでしょうか? 歴史を紐解きながら考えてみたいと思います。

 

1 学制150年

 

 江戸時代後期は、藩校(武家の学校)と寺子屋(庶民の学校)が併立されていました。

1871(M4)年に廃藩置県が行われ文部省が創設され、1872(M5)年に学制が発布され、日本

は義務教育化へと舵を切ります。ちなみに記念日は9月4日ですが旧暦では8月2日ですの

でどちらの日付でも表現される場合があるようです。

 中村でも1855(安政2)年に土佐藩が現在の中村高校近くの中村大神宮隣地に藩校を

開設します。名称も文武館→敬止館→行余館と変わりました。教科は漢学、習字、弓術、

砲術、槍術、剣術、練兵等で文武両道を目標としていたようです。1872(M5)年の学制の

発布まで存在していましたが、学制発布後は中村小学校となりました。最も盛んだった

のは明治初年頃だったようで、館の振興には樋口真吉(剣豪)、安岡良亮(後の熊本県

令)などが大きく貢献しました。

 また幡多の大教育家・木戸明は1861(文久1)年に藩校の隣に游焉塾(ゆうえんじゅ

く)を開いています。木戸明はその後、中村尋常中学校の開校と共に招かれ、ついで高

知中学、第四中学中村分校の教職の間にも私邸を開放しての学堂運営を続け、多くの人

材を輩出しました。

 

2 音次郎、佐竹家へ

 

 音次郎は学制発布の前年(1871[M4])に生家の竹島宮村家から紺屋町佐竹家へと養子

に入っています。音次郎7歳の春のことです。『聖愛一路』には「八歳の春には町の寺

小屋に入って、いろはから、人の名、村の名などひととおりの読み書きを習うようにな

り、十歳までの三年間は楽しい日々が続いたのである」とあります。

 『中村市のくらし』(1982[S57]年 中村教育委員会発行)に拠れば、学制発布の1872

(M5)年に中村では中村小学校が一番初めに開かれています。聖愛一路では「春には町の

寺子屋に入って」とあります。学制は夏のことですのではじめは木戸明の学堂に通った

と推測できます。そして「三年間は楽しい日々が続いた」とありますので藩校から改組

された中村小学校の第1期生となったか、あるいは明は私邸での学堂を継続していたの

で音次郎も残留したのかもしれません。

 音次郎が竹島から紺屋町へ養子になったことは、聖愛一路にある本人の述懐によって

も一抹の寂しさは感じていたようです。しかし、新天地で音次郎は竹島にはなかった勉

学の楽しみを感じ、「佐竹」音次郎として始まった生活に満足したでしょう。

 

3 音次郎、宮村家へ戻る

 

 ところが、養父母である佐竹友七夫婦に不和が生じ協議離婚となります。義母は実家

に帰り音次郎は父子家庭となりました。『愛の使徒 佐竹音次郎』(乾綾雄著)では音

次郎は「家業に励む事に成った」とあります。聖愛一路には宮村家の実父が「学校に通

わせてやるから帰ってきなさい」と音次郎を呼び戻していることから、紺屋町生活の後

半、音次郎は家事に没頭することになったので心身共に弱っていたようです。

 中村小学校開校から3年。1875(M8)年には竹島小学校と鍋島小学校が揃って開校して

います。同年、下田小学校も開校します。1876(M9)年、12歳の音次郎は帰郷して竹島小

学校へ入学します。小学校下等科の修業年限は4年なので中村で3年近く学んだ音次郎

は編入されたのか、不明です。就業年齢は村落小学校の場合は11歳までとなっていまし

たので特例での入学だったようです。

 実父は音次郎に農業で一人前にしようと学校を辞めさせますが、それは就業年齢と関

わりがあったのかもしれません。いずれにしましても勉学ができなくなった音次郎は再

び弱ります。そして中村へ夜学に通うことを申し出たり、丑の刻参りをしたり、人生を

模索する時を過ごします。

 やがて父も理解して音次郎に小学教員助手の道を開いてやります。1883(M16)年に高

知県小学校初等科中等科教員検定試験合格、正教員となり鍋島小学校の訓導に就任しま

した。

 

4 音次郎、勉学の遍歴

 

 農家のひ弱な4男坊も学校教師として一人前になり、1884(M17)年、四万十川対岸の

村から養子にと縁談が持ち上がりました。音次郎は丑の刻参りでの誓願のこともありま

したが、頼りの母までも賛成をしたので断り切れなくなりました。しかし1年で向学を

志望し、協議離婚します。小学校教員を辞して、1885(M18)年、高知の海南学校入学し

小学校高等科教員検定試験に合格しました。

 1886(M19)年、音次郎は同郷の桑原戒平(蕨岡伊才原生まれ)を頼って上京します。

戒平は当時、豊島郡長でした。音次郎は軍人を志望しましたが年齢制限にかかりました。

戒平の書生を経て彼の紹介で巣鴨尋常小学校に就職します。結核の大流行で小さな命が

次々と奪われる様を見て、音次郎は再び自分の人生を模索し始めます。

 1890(M23)年、小学校校長を退任して明治法律専門学校に入学しますがすぐに退学し

て、医学予備校済生学舎へ入学します。3年後、医術開業試験に合格し医籍登録を完了

して山梨県立病院に赴任します。江の島観光で見た情景に郷里を映し見て1894(M27)年、

腰越医院を開業しました。

 その後、患者の女性が母子家庭で入院すると子供を看る者が居ないので音次郎が子供

を預かったことをきっかけに、1896(M29)年7月20日「小児保育院」の看板を掲げ、音次

郎は「保育の父」としての歩みを辿り始めました。

 

5 後年の音次郎

 

 その後の小児保育院鎌倉への移転、鎌倉保育園の設立など音次郎の中心的な足跡は他

の著述に譲ります。

 音次郎が生涯の伴侶と巡り会ったことも桑原戒平の助力があったと考えられます。音

次郎の妻・熊は、神風連の乱の時に戒平の部下であった沖本忠三郎の娘でした。熊の名

前は熊本県で生まれたからと推測できます。聖愛一路では音次郎に熊を紹介したのは安

岡友衛とあります。彼は幸徳秋水の従兄弟であり、音次郎の後輩の医者で、戒平に学問

を授けた安岡良亮の甥にあたる人物です。この時、熊は東京で勉学中、忠三郎は大阪府

警で在職中、友衛は中村で医業開業中、音次郎も腰越で開業中でしたので、戒平が遠隔

操作して縁談が進んだと考えるのが自然でしょう。1895(M28)年、音次郎は10歳下の熊

と再婚します。

 音次郎は桑原戒平が退官した1904-5(M37-8)年頃、戒平に昔の恩を感謝し一冊の大判

の聖書を送ったと、戒平の長男・清の手記に記述されていることが発見されています。

音次郎は山梨県立病院を退職する時に患者の林夫人からに基督伝と新約聖書を贈られて

いますが、同様に戒平にも贈ったのでしょう。戒平は音次郎の勧めで鎌倉に転居し、晩

年は音次郎と共に鎌倉メソジスト教会に通いました。

 音次郎の晩年は、游焉塾や中村小学校で繋がりがあった土佐中村の目代家出身・横田

金馬との交流が盛んであったことが日誌(原本)から読み取れます。金馬という人物は

幸徳秋水を大阪で中江兆民と出逢わせた、いわば秋水が秋水たるきっかけを与えた人物

と言って良いでしょう。金馬も後年、東京から鎌倉へと転居し、鎌倉で病死しています。

金馬について詳しいことはまだ分かっていませんが、音次郎日誌を見る限りにおいては

音次郎との交流が深くありました。

 

6 「佐竹」に拘った音次郎

 

 音次郎は佐竹姓を変えられる機会が少なくとも3度ありました。紺屋町から竹島に戻

った時、実崎へ婿入りした時、宮崎 政と離婚した時です。しかし、それが自由になら

ない範疇であったのかその他の事情かも知れませんが、音次郎は「佐竹音次郎」のまま

で人生を貫きます。「音次郎はなぜ佐竹姓なのか?」は、音次郎会でも7不思議の1つ

になっています。

 そのヒントは冒頭でも引用した聖愛一路の記述にあると思います。紺屋町の佐竹音次

郎は「十歳までの三年間は楽しい日々が続いたのである」。宮村家で過ごした7年間と

は世界が違った歳月。音次郎が初体験した「勉学」の道に音次郎の人生は開けていった

のでしょう。ちょうど維新と呼ばれる時代に生を受けた音次郎。学制発布の同刻で勉学

を体験した音次郎。中村の「おまち文化」で育てられた佐竹音次郎でありました。

 竹島宮村家の四男坊音次郎は紺屋町佐竹音次郎として生まれ変わった思いがあったで

しょう。「俺は佐竹音次郎として生きる」。そんな音次郎の決心が、生涯、音次郎を勤

勉であらせたのではないでしょうか。

 鎖国の日本が維新で開かれたように、音次郎は勉学によって新しい人生が開かれたで

ありました。

 

[写真上]中村大神宮付近の写真。四万十市中村丸の内の中村高校へ続く道。郷土資料館のある山際にかつては後川のお堀があった場所。今も小川がある。北向きの写真で左から木戸明邸跡(游焉塾跡)、間に中村大神宮、右には中村の藩校・行余館跡。右端の時計塔は中村高校。[写真中央]中村大神宮境内に現存する石碑で、中村小学校旧校舎跡と記されている。緑の草の上に長方形のシンプルな石碑。[写真下]中村大神宮の正面写真。石の鳥居から中央に参道が写っており、奥にはもう1つの鳥居があり本殿がある。写真右側に細長い石碑で中村大神宮と刻まれている。その下には防災看板があり、地震避難場所とある。この左が木戸邸跡、右が藩校跡