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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃2┃

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                            ┃別┃冊┃1┃

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【読み物シリーズ 9】

 

音次郎の保育事業創立の動機

 

作:中平菊美

 

 音次郎は明治29年(1896年)に保育事業を始めましたが、それは何故であったのか大いに

興味のある件です。そのことについては、従来、音次郎の著書と目される事業45周年記念

誌『聖愛一路』の記述にある「小さい子ども連れの入院を要する母親の来院……身寄りの

ない妊婦の来院」が動機だと思われていました。

 ところが、平成30年(2018年)に音次郎の子孫から保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会に資料

の寄贈があり、その中から大正15年(1926年)の文書内に音次郎が肉筆で記載した「事業創

立の動機」の文書が見つかり、次のような事が分かりました。

 音次郎が「保育」という事業を始めた動機は、彼の生い立ちに有るようです。

 

 音次郎は江戸時代の終わり間近に竹島の農家宮村源左衛門・佐雄夫婦の四男として生ま

れます。地域の暮らしは貧しく、子どもは三人を除いては間引く慣習があったそうです。

宮村家も例外ではない暮らしぶりであったようですが、母が33歳という特別な年齢であっ

たことや中村町の親戚佐竹友七・馬夫婦から、生まれたなら養子に欲しいとの話があった

ことから出生となったそうです。

 7歳の時、音次郎は佐竹家に行きますが、別れの時、家族を悲しませてはいけないと、

佐竹家に行くことを喜んでいるかのようにふるまったそうです。

 初めの頃は幸せな日々だったようですが、やがて夫婦が離婚することになり、音次郎も

苦しい日々を迎えます。

 見かねた実父母が「学校に通わせてあげるから」と竹島に呼び戻します。13歳で尋常小

学校に入学し、何歳も年下の子と席を並べる学校生活でしたが、大好きな勉強が出来るこ

とで幸せな日々だったようです。しかし、15歳になった時、父母は音次郎の将来を考えた

結果、学校へ通う事をやめさせ3人の兄弟と共に農作業にあたらせます。

 音次郎は農業が自分の道ではないと悩みます。そんな日々の中で17歳になり、決意が生

まれます。

 

 世の中には私のように悩みを持つ子が沢山いることであろう。自分はそういう子たちの

援助者乃至(ないしは)保護者になる。加えて、好ましくない生活習慣の改善に努める。

 

 この17歳の決意こそが保育事業創立の動機なのです。

 資料にはもう一つ注目すべき次のような記述があります。

 

 創立明治29年7月創立者の長女(長子)の生れるに際し日天来の力に感じ思い一か月に

して小児保育院と命名し腰越医院内に於いて育児事業に着手した。

 

 長女の出生が事業創立のきっかけになっているのです。どうしてなのかの記述は無く想

像する以外にありませんが、わが子への愛情を感得できずして、他人様の子をわが子のよ

うに受け入れることは不可能との考えがあってのことだったのかもしれません。

 いずれにしても長女の出生が事業創立の内的きっかけになっていることは間違いないよ

うです。

 『聖愛一路』にある「小さい子どもを連れた入院が必要な患者の来院や身寄りのない妊

婦の来院」は、事業創立の具体的なきっかけであったのでしょう。

 以上をまとめると、音次郎の保育事業創立の動機は17歳の時の決意で、長女の出生は内

的きっかけ、不遇な来院者は具体的きっかけとなるようです。

 

[写真上]発見された大正15年12月5日の手紙(一部)。半紙の様な赤い罫線が入った鎌倉保育園罫紙に音次郎の毛筆で設立の動機などが綴られている。印刷物にするための原稿と思われる。[写真下]近隣村長より用材の寄付を受けて落成した保育専用舎(於 腰越医院)明治36年(1903)頃の写真。手前に濡れ縁があり、回り廊下のようになっている。この縁のある建物が保育専用舎と思われる。写真の奥側には大きな建物も写っていて、それは腰越医院と併設住居と思われる。