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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃2┃9┃
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┃別┃冊┃
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【読み物シリーズ 18】
佐竹音次郎と石井十次
作:瀬戸雅弘
宮崎県高鍋出身で当時、日本最大規模の岡山孤児院を運営していた石井十次と音次郎は、
第1回育児協議会で「孤児院問題論戦」を繰り広げた事が新版 聖愛一路に記されています。
古語文体の(初版)聖愛一路では、石井十次に配慮されていてその論戦相手が秘匿されて
いました。ただし後書きを読めば、それが誰と論戦したのかが判るのですが。
近年、顕彰活動で相互研鑽させて頂いている「石井十次に学ぶ会」の方に、その出来事
が十次日記に記されていないか調査をお願いしました。残念ながら記述は無かったですが、
聖愛一路は音次郎の自伝的伝記で、本人が監修していますので「音次郎 VS 十次」で、舌
戦の火花が散らされたのは事実でしょう。
好敵手、ライバル、盟友、同労者……この2人の関係性はどう表現するのが相応しいで
しょうか? 比較学習のために取り組んでいる十次セミナー参加を通して得られた事実か
ら、2人の繋がりを見てみましょう。
1 共通点
音次郎は1864年(元治1)竹島、宮村源左衛門の四男として生まれます。生家は農家で
したが、後に音次郎は実崎村の地主の婿養子となっている事から竹島生家も地主か大農家
であった事が推測されます。
十次は1865年(慶応1)、宮崎県高鍋町、石井万吉の長男として生まれます。高鍋藩士
の家柄で、父は県庁役人でした。
音次郎が7歳で紺屋町の染物屋に養子に行った時、小学校で同窓生の横田金馬に硯を壊
されてしまいます。その時、金馬に対して「心配するな、僕は怒っていない、またおじさ
んに買って貰う」と優しく声を掛けました。
十次が7歳の頃、天神様の秋祭りで母から木綿の着物に新しい帯をしめて貰いました。
ところが、祭りから帰ってくると縄の帯をしめていました。「友だちの松ちゃんが、きた
ない着物に縄の帯をしていたのをみんなからからかわれていたので、自分の帯と取り替え
てやった」と母に説明しました。
音次郎は養子先の離婚、帰郷して小学校教師見習い、隣村へ婿入り、軍人を目指して離
婚して高知行き、やがて上京、天職に迷った末、医師となります。初赴任した山梨病院で
入院患者から聖書を受け取って、その数年後、クリスチャンとなります。
十次は結婚してから小学校の教師となり、熱心なクリスチャンである荻原百々平医師と
出会います。海軍士官を志し上京しますが脚気のため帰郷、数年後、荻原の勧めにより岡
山県甲種医学校入学しました。新島襄などとの出会いもありクリスチャンとなります。
音次郎は山梨病院を退職して開業していた腰越医院に親子の患者が訪れ、娘を見てくれ
る者が居ないので治療が出来ないと訴えられ、夫婦でその娘を里子として育てます。やが
て腰越小児保育院と看板を掲げ、鎌倉保育園へと発展します。
十次は岡山東部の寒村・上阿知診療所で医療実習をしている時、横にあった大師堂で夫
婦で困窮者の支援をしていました。ある時、巡礼途上で夫と死別した婦人がこの先、子連
れの旅は厳しいので預かって貰いたいと懇願され、夫婦で預かる事にします。さらに2人
を預かった時、宿舎では手狭ゆえ、三友寺に一室を借りて移り住み、山門に「孤児教育会」
の看板を掲げます。やがて医業の道は断念し、岡山孤児院を開きます。
2 相違点
十次がはじめて孤児を預かったのは22歳の時の事です。
音次郎がはじめて保育を始めたのは32歳の時の事です。
音次郎は十次の1歳年上です。音次郎は医は仁術との思いから医師として活動した時期
が12年間ありますが、十次は道半ばで医学書を庭で焼き捨てました。
音次郎が小児保育院を開設してしばらくした時、すでに孤児救済の慈善活動家として十
次は世に名が出ており、音次郎は「岡山孤児院」なる書によって十次を知ります(音次郎
日誌に記載あり)。
音次郎は書画会の賛同者を求めて、当時の日本の海外進出策に便乗して外地へ赴きます
が、現地でも子供が受難しているのを見て見ぬ振りができず、やがて海外5支部を展開し
ます。なお、音次郎会の研究によって更に別の海外支部の計画もあった事が判ってきてい
ます。十次は岡山孤児院の運営資金と事業の紹介のため孤児達でブラスバンドを編成し、
全国各地、そして台湾・ハワイにも脚を伸ばし、音楽幻灯隊として活躍しました。
音次郎は20歳のとき先妻と1年だけ婚姻関係にあり、自分の人生を切り開くために離婚
します。その11年後に熊と再婚します。熊は保育事業の厳しさ故に幾度か雲隠れしますが、
音次郎は反省して熊を大切にします。事業は存命中に娘婿に引き継ぎ、77歳で帰天、熊は
その19年後、83歳の天寿を全うします。十次は16歳で品子と結婚し、共に岡山孤児院を支
えますが31歳で過労のため没します。孤児院運営のためすぐに、夫が早世していた辰子と
再婚します。十次は49歳で病死し、辰子がその事業を引き継ぎ64歳で没します。
3 「見つけた!」
私は2013年(平成25)8月、第16回石井十次セミナーに出席しました。音次郎との関わ
りや共通点を十次に見いだしてみたい、その探訪の旅でもありました。その時、建て替え
前の石井十次記念館のあるショーケースの前で私は思わず声を上げました。そこには佐竹
音次郎が石井十次に宛てた手紙が収蔵されていました。手紙は1914年(大正3)2月10日
の物です。十次の訃報を聞いて、音次郎が出張先の台湾から辰子夫人と施設役員に差し出
した毛筆の手紙でした。
十次が没したのは1月30日ですので、今とは情報伝達手段が貧弱な大正時代の話、僅か10
日後に弔文を、しかも海外から送っている事には驚かされました。この事から、音次郎が
海外に居ても十次の訃報をキャッチした事、そして、即、行動に移した事などから、音次
郎は十次の事が心にあったのだと気付かされました。
4 孤児と保育
音次郎が保育の父と呼ばれているように、十次は孤児の父と呼ばれています。
十次セミナー会場近くのJR日豊線高鍋駅に下車した私の目に真っ先に飛び込んできた
のは、駅構内に設置された巨大な「孤児の父・石井十次顕彰の碑」でした。それは幅約8m、
高さ約2mの古墳のような衝立状のモニュメントでした。これを見た私は、如何に十次は
郷里で顕彰されているのかがよく判りました。しかし、それと同時に音次郎との大きな違
いも感じました。
音次郎が保育の父と呼ばれている理由は、自分の施設に孤児院という言葉を使わなかっ
たからです。「我々夫婦がその子供を引き取って育てるのであるから、もはやそれは孤児
ではない」というのが音次郎の考え方でした。音次郎のその思いは彼の没後7年で実り、
1948年(昭和23)児童福祉法の施行に伴い「孤児院」という名称が「養護施設」に改称さ
れた事は周知の通りです。(さらに1998年(平成10)の改正によって現在名称の「児童養
護施設」になります)
音次郎が出生した当時、寒村であった竹島には男児出生数の制限がありました。四男と
して生を受けた音次郎は里子に出される事で活路を見いだします。しかし、養子先の家庭
が崩壊し、成長した兄たちとは農業をする上で劣等感を感じ、好きだった学校通いも辞め
させられ、病弱になり、不本意な縁談が持ち上がるなど、若くして人生の辛酸をなめる事
になります。音次郎は上京しました。そして医業を目指すようになるのです。
音次郎が医者になった時、人生を左右する大きな出合いをします。それは聖書です。
「1 共通点」で述べた通り、音次郎は林夫人から聖書をプレゼントされますが、その中
にこんな言葉があります。
「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」(新約聖書 ヨハネの福音書 14章18節)
この言葉はイエス・キリストが十字架にかかる直前に弟子たちに語った言葉です。キリ
スト教では神と私たち人間との関係が信仰によって親子のようになると教えていますが、
音次郎が預かった子供を「孤児」とは呼ばなかった精神的原点がここにあるように私は思
います。
5 クリスチャン同士として
私は十次記念館でもう1つ、貴重な物を見つけていました。それは聖書の一節の掛け軸
です。その揮毫は「心が貧き者ハ福な利」と記されていました。これは新約聖書マタイの
福音書にある山上の垂訓と呼ばれている個所の一部分です。現在もちいられている新改訳
聖書では「心の貧しい者は幸いです」と訳されている言葉です。音次郎が初めて聖書をひ
もといた時、この個所に深く感銘を受けたと聖愛一路には記されています。
余談になりますが、この聖句は理解しにくい言葉の1つであります。端的に言えば「自
分の心の貧しさを知っている者は、幸いに通じてくる」という意味です。つまり、自分の
限界を知った時、自分を助ける神の存在を受け入れ、神との関わりに生きる事を選択する
ようになる。それが幸いであると聖書は教えてくれているのです。
それから数年後、音次郎は初めて十次の存在に気付き、その後、ふたりは出逢いを果た
しています。それは電撃的な論戦の場としてです。
音次郎が十次の活躍を知った時、音次郎は医院の傍らで小児保育院を運営していたばか
りに、医業から流行病を保育側に持ち込んでしまい、実子を含む2名の尊い命を失ってし
まいます。十次との出逢いがその決断を左右したかどうかは想像の域を脱せませんが、数ヶ
月後、音次郎は十次のように医業を棄て、児童養護に専念する決心をしました。
キリスト教では信者同士を兄弟・姉妹(ブラザー・シスター)と呼びます。それは、同
じ神を天の父としているのですから、同じ父の子供同士は兄弟だという考え方です。音次
郎兄は十次弟の活躍を、血を分けた存在のように思っていたのでしょう。
このクリスチャン福祉実践家ふたり。不思議なつながりがある事を私は高鍋の地で見つ
けました。
(本書は2014年2月10日発行石井十次の会 会報「むつび」197号に掲載された拙書に加筆し
た物です)
▼石井十次記念館に展示されていた御言葉(聖書)の掛け軸