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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃3┃0┃
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┃別┃冊┃2┃
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【読み物シリーズ 20】
辞世の句碑の本当を探す!
~日誌原本と「日誌 佐竹音次郎」から~
作:中平菊美
佐竹音次郎を知る上で、日誌・園報「保育の園」・事業45周年記念誌「聖愛一路」は欠か
せない資料だが、とりわけ日誌は重要である。
その日誌は佐竹音次郎が書いたものと事業80周年記念誌として昭和51年に作られた「日
誌 佐竹音次郎」とがあるが、辞世の句碑を例に取り上げ両者の違いを見ることにする。
◎佐竹音次郎の辞世の句
我死なば 死骸は松の 根に埋めよ
我がたましひの 松の肥やしに 撫松
▼竹島に置かれた辞世の句碑![]() |
▼鎌倉に置かれた辞世の句碑![]() |
1 佐竹音次郎の日誌と「日誌 佐竹音次郎」
音次郎が書き遺した明治38年から昭和14年までの約9200日の日誌(以後日誌原本と
表現する)があり、2018年から音次郎会が所持することになったが、個性的な毛筆書きで
ほとんど読み解けていない。
保育事業を始めた明治29年から明治37年までは、大学ノート2冊に鉛筆書きしていたら
しいが紛失とのことである。また昭和15年も亡くなるまで記載していたと思われるが見つ
かっていないとの家族の話である。
昭和51年に事業80周年記念誌として、日誌原本の内の約2600日を取り挙げた「日誌
佐竹音次郎」が出版されており、今私たちが読める日誌はこちらである。
日誌原本と「日誌 佐竹音次郎」の記載日数は次の通りである。
<日誌原本> <日誌佐竹音次郎>
年 日 数 日 数
明治38 269 70
39 50 7
40 98 36
41~43 記載なし(日誌に「多忙により健忘症になる」と有る)
44 187 35
45 137 21
大正 1 42 15
2 105 28
3 199 44
4 362 101
5 355 100
6 364 104
7 327 74
8 359 106
9 328 92
10 336 90
11 298 55
12 365 118
13 359 88
14 365 161
昭和 1 269 111
2 345 112
3 326 86
5 321 103
6 359 130
7 281 100
8 357 104
9 244 61
10 363 82
11 351 50
12 176 31
13 327 77
14 258 92
(33) 9154 2589
(参考)音次郎享年76歳3ヶ月6日=27,857日
日誌原本自体、音次郎の生涯の中のわずかな日数の記載で、音次郎を知るのに十分な資料と
は言えない。まして「日誌 佐竹音次郎」にいたっては日誌原本の約四分の一を取り上げたも
のであり、不十分さがあるのは当然であろう。
「辞世の句碑」を例にして、日誌原本と「日誌 佐竹音次郎」にどのように記載されている
のかを見ることによって、辞世の句碑の本当をとらえると共に、「日誌 佐竹音次郎」の不十
分さをおさえたい。
2 日誌原本と「日誌 佐竹音次郎」の辞世の句碑関係の記載日
<日誌原本> <日誌 佐竹音次郎>
昭和13年11月12日 11月12日
13日
15日
12月10日 12月 8日
11日
昭和14年 1月 5日 1月 5日
6日
7日 7日
8日
9日
10日
13日
9月14日
19日 9月19日
21日 21日
29日 29日
30日 30日
3 「日誌 佐竹音次郎」の記載
(注)祖父母:音次郎とくま 園父母:昇と伸
○昭和13年11月12日
太田水穂先生に添削いただきたる辞世「われ死なば死骸は松の根に埋めよわがたましの
(心なる)松のこやしに」
歌碑を石に刻するためにご直筆を乞う。
<読み取り>
「句ができた」と読み取れるのではないだろうか?
句碑の文字は太田氏かととれようが、1月7日の日誌ではそうでもないととれる。実際は
不明なままである。
○12月8日
祖父午前9時頃上京。園父に新橋に迎えられ、共に浅草の石田代理石工場に行き、粗質なる
肉色の代理石幅二尺縦六尺厚三寸切り出しのままのものを金40円にて買い取り、二、三日の
後、鎌倉から差し出すトラックにて取り寄せる筈。
<読み取り>
句碑にする石材を買った店は「石田代理石工場」。
○昭和14年1月5日
園父は祖父の部屋に来りて石の歌碑につき相談す。其の相談は相馬(*相馬半治、明治製菓
社長)の門に有るしるべ石を門脇に採り、其の跡に天狗山の(新しく求めたる)上に一つと東
京より先に取り寄せたる○石の欠けたるものを二つに割り双方に置く事なり。
○1月7日
園母太田先生を杏々山荘にたずね、碑の見本を書いていただく。園父は石屋を応対す。
○9月19日(原本と同じ)
祖父母、郷里に墓参の為、相伴うて出発す。
○9月21日(原本と同じ)
幡多に入る
○9月29日(原本と同じ)
高知より高松に、それより岡山に出て東上す。
○9月30日(原本と同じ)
此度にて竹島にて親の如き老松に別れを告げ
~これから後は伸の書と思われる~
○昭和15年1月3日
この頃祖父は前年に引き続き遺詠の歌碑の石材がまだ決まらず探し求めていた。
○2月18日
この日鎌倉駅そばの石屋で石材を決めた。そして石屋の店を出たところで突然の発作に襲わ
れ卒倒してしまった。
○6月1日
歌碑が竣工した。建立の場は鎌倉保育園前の佐介の小川に架せられた橋を渡った保育園の門
のところ、松樹を背景としている。その頃老園父の容態が若干回復を見せ、天気のよい日は庭
をそぞろ歩きし、幼児たちの遊びを眺め、歌碑のそばに出て小川のせせらぎを聞く楽しみが加
わった。
4 日誌原本の記載
(注)xは読めない字
○昭和13年11月12日 土、晴れ、鎌倉
石川xより返入のxのたる歌を持参して祖母八時頃亀姉と共に太田先生方に伺う。xx厚意
にてxxして車をいただいてxx来す。
辞世 我死なば死骸は松の根に埋めよ
己の(xおしひの 心なる)松のこやしに
○11月13日 日、晴れ、鎌倉
朝園母は昨夜の礼(祖父が車をいただいて帰園されしを)に杏々山荘に太田先生を訪問。
其の際歌のお話があっておすすめいただき帰園される。
昨日太田先生より訂正をいただき、和歌とせん為に下の句を考える様お話あり、張り切りし
思ひは何処時は来む・・・
○11月15日
太田先生より訂正をいただきたる俳句を和歌とせん為に・・・
○12月10日
祖父浅草区菊屋橋二丁目十三番地石田大理石工場に行き、粗質なる肉色の大理石幅2尺縦
六尺厚さ三寸(切り出しのままのもの)を金40円にて買い取り二、三日後鎌倉から差し出
すトラックにて取xxする筈(交渉は須田兄に頼む)代金を持参せしむる事
○12月11日
東京の石屋より石を取り寄せる事を須田兄に頼みおく。名紙を頼み鎌倉の問屋へ掛け合い
して一応東京へ問い合わす筈の由
○昭和14年1月5日
園父は祖父の部屋に来りて歌碑の(石の)事に就いて相談す。其の相談は相馬邸の門に有る
しるべの石を門脇に採り其の跡と天狗山の(新しく求めたる)上に一つと東京より(先に)
取りよせたるx石の欠けたるものを二つに割り双方に置ん事なり。
○1月6日
祖父は園父の部屋にて園父母と相談して、昨日祖母と共にxある石数個の中を(駅脇の石屋
に行き)再見して、相馬邸のしるべの石を採る事を差し控え、碑文石と其の台石を求め、x石
を分けることを辞めて一個のまま天狗山に置き、2、3個の庭石を(有合わせ)台とする(継
ぎて)石代、門脇に新たに求めたる(15円x25x)
石の事は此の日xく落着せり。xって石屋に文字彫刻の上運び来る筈、文字は祖父と園父の
合作のx
―歌碑の寸法、形を書いた絵図- (音次郎手描きの挿絵がこのページにある)
祖父と園父との合作という文字は、祖父の書きたるものを園父が(くまどり)して改作の上、
石屋とxするxx
○1月7日
祖父は碑に刻む文字を書き園母はそれを持って太田先生を杏々山荘に尋ね見本を書いて頂い
て帰る。園父は石屋と応対す(歌碑の文字に就いて)
○1月8日
園父は碑文の下書きをせらる
○1月9日
祖父は園父の部屋にて園父母と共に碑文を揮毫と軸物を書きて一日終了
○1月10日 冷に風加わる
祖父は朝より3時まで園父の部屋にて園父母の助けにより残りの書をかく。祖父は郷里の
天満宮へ夢の一字を捧ぐるとか、祖父は園母の渡満前に土佐へ寄りて園母は一人渡満、祖父は
一先づ鎌倉へ帰って暖気を待つ云々。中止となる
○1月13日
午後かねて頼み置きし石屋来り、記念樹3本檜、桜、xの小記念碑に文字を塩梅す。歌碑の
位置を観る
○9月14日
秋の好季節を利用して故父母の墓xを試さんとせり
○9月19日(「日誌 佐竹音次郎」と同じ)
祖父母、郷里に墓参の為、相伴うて出発す。
○9月21日(「日誌 佐竹音次郎」と同じ)
幡多に入る
○9月29日(「日誌 佐竹音次郎」と同じ)
高知より高松に、それより岡山に出て東上す
○9月30日(「日誌 佐竹音次郎」と同じ)
此度にて竹島にて親の如き老松に別れを告げ
5 「日誌 佐竹音次郎」の不十分な点
上の3と4から「日誌 佐竹音次郎」に次のような不十分は点が認められる。
① 数日の内容をまとめたり、一部を取り出した記載になっている。
② 日誌原本には無い12月8日がある。
③ 句の完成は、日誌原本によると作成に悩んでいた昭和13年11月15日から石碑の入手に
動き始めた12月10日までの間と思われるが、「日誌 佐竹音次郎」では昭和13年11月
12日と読み取れる書き方になっている。
④ 石碑の石材の購入先については、「日誌 佐竹音次郎」では「石田代理石工場」となって
いるが、これは文字変換上の間違いで「石田大理石工場」が正しいだろう。
⑤ 石碑の文字について、日誌原本では「音次郎が書き、昇が縁取りした」と明らかになって
いるが、「日誌 佐竹音次郎」ではその記載が採用されておらず、読み方によっては「太田
水穂の字」と解釈される可能性がある。
「日誌 佐竹音次郎」には辞世の句碑の場合同様に他の部分にも不十分な点があるのでは
ないかと想像され、日誌原本の読み取りの重要性を思う。
6 お知らせ
音次郎会では資料の公開を心掛けホームページに載せると共に、日誌原本や書画寄贈者芳名
簿は複製版を作って音次郎会事務局、社会福祉法人栄光会、社会福祉法人聖音会、四万十市図
書館、高知城歴史博物館、高知県立歴史民俗資料館、オーテピアに置いてもらっている。その
他の資料についても可能な限り公開すべく取り組んでいる。