保育の父・佐竹音次郎会に学ぶ会  会報33号

                        ―2025,10,1発行―

 

○ 厳しい暑さや数々の異常な気象状態があちらこちらに見られた夏でした。皆様お変わり

 なくお過ごしでしょうか。

  会報33号をお届けさせていただきます。

 ―内容―

   1、東京の榛原来訪     2、勉強会「音次郎の里散策」

   3、こんな資料が      4、音次郎会の今後の活動

   5、次の勉強会のご案内

   ● 読み物シリーズ22 「醫士 佐竹音次郎」 

 

1、東京の「榛原(はいばら)」来訪!

 7月31日に芳名簿の複製版の製作を依頼している東京日本橋にある和紙専門店「榛原」

から芳名簿の現物を見に来てくれました。

 「榛原」は音次郎が曽祢荒助の指示で奉加帳を買いに行った店です。

 音次郎会で音次郎が残した二冊の書画寄贈者芳名簿の複製版を作る取り組みを進める中で、

「榛原」が今も営業していることを知り、できるだけ本物に近い物を作ってほしいと願って

製作を依頼したのです。

 明治38年に音次郎が「榛原」に来店した話や、用紙に榛原名の入った奉加帳でできた書画

寄贈者芳名簿なども見て頂きながらの依頼でした。

 鎌倉保育園では「宝」と呼んでいたと聞くこの芳名簿。そのレプリカの出来上がりが楽しみ

です。

 出来たなら、音次郎の日誌の場合と同様に四万十市図書館や高知市のオーテピアにある県立

図書館などに寄贈して、多くの市民の皆様に見て頂けるようにしたいと考えています。

 

2、「音次郎の里散策」

  8月9日に勉強会「音次郎の里散策」を行いました。概略は以下の通り。

 

◎ ようこそ音次郎の里竹島を訪れて下さいました。これから散策しましょう。

 音次郎が住んでいた頃の面影はほとんど残ってはいないのですが、よくよく探してみると

音次郎の「夢の碑、辞世の句碑、墓碑、生家の碑、生家案内碑」をはじめ当時を想像できそ

うな幾つかが残っています。

 これからの散策では、音次郎に直接関係ある物だけでなく、当時を想像させてくれそうな

あれこれについても触れてみることにしましょう。

 

 1) 先ずは「竹島」についてです。

    6千年ほど前は海水面が今より6メートルほど高く(土地が隆起しているのが原因と

   思われる。)この竹島は名前の通りに島であったようです。高島とも呼ばれていたそ

   うです。また、この防災センターが建つ山は岩越と呼ばれていたようで、西暦1500

   年頃には岩越城という城があったそうです。

    音次郎の生れた頃には、四万十川の水を防ぐ現在のような堤防はなかったと思われ、

   多分ほとんどが湿地で人家は山際にあった位だったと思われます。

 2) すぐそばを四万十川が流れ、この辺りは「汽水域」です。

    海水と川水が混ざりあう場所を汽水域と言いますが、独特な生態系があります。

   アカメが多く住み着いているのもこの岩越の下の淵です。水深12メートルくらいあ

   ります。しばづけ漁、少し上流では石ぐろ漁という昔からの漁も行われています。

   また、すじ青のりや青さの産地でもあります。

 3) 国営農地開発事業高知西南地区として現在の状況になっています。

    地域を見渡すと、広々とした土地に多くの人家が建ち、圃場整備がなされた水田も

   広がっていますし、ここからは見ることはできませんが、周囲の山々は54ヘクタール

   が農地に造成されていてミカン畑などになっています。

    それらは、昭和60年から平成13年にかけ、大方町、中村市、土佐清水市、

   三原村、大月町を対象地区とし、基盤整備が遅れており経営規模は零細であるので、

   これを打開するために行われた事業によるものです。

 4) この竹島防災センターは尋常小学校跡に建っているのです。

    昭和32年に佐岡につくられた高知慈善協会の若草園は建物も古く、手狭でもあっ

   てどこかへ移転する必要にせまられました。しかし経営に行き詰まっており、音次郎

   が創設した鎌倉保育園に助けを求め、昭和41年に鎌倉保育園中村支部若草園となり

   移転が行われました。移転先としてこの学校跡地が候補になったそうですが、条件が

   整わなかったようで下田の現在地になったのだそうです。昭和44年に移転しています。

    音次郎が中村町の佐竹家から実家に戻り、7才も年下の子たちと1年生になったのは

   この尋常小学校だったのではないでしょうか。

 5) この側にある岩越四所神社について触れておきましょう。

    神社の後ろに山城にありがちな「堀切」が認められることから、多分岩越城があっ

   た場所だと思います。この神社は岩越吾兵衛と活躍した四人の武人を祀ったものだそう

   です。現在は竹島神社の神様も合祀されています。

    音次郎の「聖愛一路」の中に、丑の刻詣りをしたことをはじめ竹島の「天満宮」に

   ついては何度か出てきます。竹島神社のことです。音次郎は天満宮と呼んでいたよう

   です。菅原道真を祭ったもので菅神社とも天神様とも呼ばれることのある神社です。

 6) 夢の碑

   「夢」一字のみが刻まれた碑で、竹島神社の境内に置かれ、現存しています。この碑に

   ついて記述しているのは、音次郎の長兄卯太郎の孫の乾 綾雄氏だけです。母寅野から

   聞いた話として、「明治33年11月から翌年4月まで結核療養の為に実家に戻って

   療養していた際に、兄卯太郎に竹島神社にお礼の碑を建てたいと申し出て、支援を

   得て建てた」の旨を書いています。

 7) 辞世の句碑

   「吾死なば 死骸は松の根に埋めよ 我がたましひの 松の肥やしに 撫松」と刻ま

   れています。撫松は音次郎の詩人としてのペンネームにもしていますが、この辞世の

   句を捧げようとした松につけた名前です。

    辞世の句は昭和13年末頃にでき、この石碑は昭和14年9月に最後の墓参にと

   帰郷していた際に建てたと、乾 綾雄氏の記録にあります。尚、昭和15年6月には

   同内容の碑が鎌倉保育園の門側にも置かれ現存しています。こちらは音次郎の保育

   事業45周年記念として園の友会が設置したものです。

 8) 墓碑

    現在有るのは、音次郎と妻熊が眠る墓碑で昭和41年に建てられたものです。

    向かって右側面には当時理事であった佐竹 昇の文で音次郎の生い立ちと業績が、

   左側面には夫婦の享年が、背面には5名の実子名が記されています。

    音次郎は昭和15年8月16日に亡くなり、翌年1月に分骨されています。その時

   に墓碑が置かれたと思われますが、その墓碑の記録は見つかっていません。昭和5年

   に兄卯太郎が亡くなった際に帰郷し、自分が亡くなったら父母の側に墓を置きたいと

   親族一同に申し出て了解を得ると共に、市川石工に相談もしていることから墓石の

   注文であったと思われ、その墓石を置いたのではないかと想像することです。

 9) 生家の碑

    昭和16年1月16日、音次郎の分骨に合わせて全国育児事業協会が生家の庭に

   設置した物です。背面に墓碑が来る向きで置かれています。碑の書は大久保利通の

   子の協会長大久保利武です。

10) 生家案内碑

    生家近くを通る県道20号下田港線脇に置かれています。石製のものは設置年も

   設置者も不明です。木製のものは平成18(2006)年に竹島小学校の6年生が

   卒業記念に設置していた物が老朽化した為に、令和7(2025)年に竹島小学校の

   後輩たちが設置した物です。

11) 彰徳碑

    昭和10年3月10日に発生し、田ノ口や下田の山林千町歩を焼き尽くす大火事が

   あった。このことから音次郎の甥の宮村正秀は消防団を作る為に尽力し下田町第5

   消防隊を完成した。澤良宣源茂は警鐘と警報台を建てた。この両名を称える碑です。

    正秀氏も叔父音次郎の人の為に尽くす生き方の影響を受けていたのかもしれませ

   んね。

 

◎終了後の感想

 参加者から「竹島を通ることは度々あるが、こんな歴史や内容を持った物があることは知ら

なかった。」の言葉を聞きました。

 見学を通し、音次郎の何処か何かに繋がっていそうなことを思い描けたなら、今回の散策の

成果だと思います。

 

3、こんな資料が!

 多くの資料が皆様の読み解きを待っています。

 そんな中で、私が興味を持つ資料を二つ紹介します。

 ①音次郎の名刺

   神奈川県の方からお寄せいただいた資料の中に一枚の名刺がありました。

            財団法人鎌倉保育園理事

           醫士    佐竹 音次郎

  と書かれています。

  (あれ?財団法人の頃には医士はしていないのに医士と書いているのは?)

  これが興味をひかれた点です。音次郎は肩書きをはじめ飾ることを好まない人でした。

 なのに、保育に専念して医業に携わっていない音次郎が何故「医士」と記したのかは、

 推測して音次郎の理解につながることで価値があると思います。

  後に記載する瀬戸雅弘氏から届いた読み物シリーズ22「醫士 佐竹音次郎」は、諮らず

 してこの名刺に関わる物でした。瀬戸氏の識見をお楽しみください。

 

 ②「宮村音次郎」と記載のある資料

   宮村音次郎という名前を初めて見た資料が地元竹島で見つかっています。資料は「大正

  4年諸歓出受控帳」と名付けられたもので、軍隊に入営する者に贈り物をした人たちの

  名簿です。そこに「宮村音次郎」の名前があるのです。

   この家は音次郎の生家に近く、深い関係も有り、音次郎への支援も大きかったようで、

  音次郎がこの為に帰郷はできなくても兄たちを通じて贈り物をしたとして当然のように思

  うところです。

   この「宮村音次郎」が佐竹音次郎かの確認には至っておらず、解明を待っていることの

  一つです。

 

4、音次郎会の今後の活動!

 本会が10年経ちました。この間に力を入れた一つは、最も重要な資料である「音次郎の

日誌」と「二冊の書画寄贈者芳名簿」の複製版作りと多くの方が見れるように願っての関係

機関への贈呈でした。

 これには多くの労力と時間と資金が必要で、皆様方に協力をお願いしたことです。お陰様で

理解者から多大なご支援をいただき、日誌はすでに完了し、芳名簿も近く完了できる見通し

です。

 今後は、会本来の「音次郎を知る取り組み」を中心にしながら、「知ってもらう」活動も

続けたらと考えます。

 

5、次の勉強会のご案内

 次は2月14日(土)午後1時30分から、会場「しまんとぴあ」です。

 音次郎の孫の「佐竹十太郎」に関してです。命名は母親の里子と音次郎夫婦の三人によって

だったようです。どのような思いを持って命名されたのでしょうか。日誌の記載等を元に考え

てみることにしましょう。

 

 

 「厳しい暑さがまだまだ続くと思われます。

  どなた様もお体に気を付けられますように!」