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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃3┃3┃

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                              ┃別┃冊┃

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【読み物シリーズ 22】

 

醫士(いし) 佐竹音次郎

 

                                  作:瀬戸雅弘

音次郎の名刺。上質紙が黄ばんでいる。右に財団法人 鎌倉保育園、中央に医師 佐竹音次郎

 

 音次郎の名刺は右肩に「財團法人 鎌倉保育園理事」、中央に「醫士 佐竹音次郎」とあり

ます。これを初めて見たときに違和感を覚えました。なぜ音次郎が保育事業(今で言うところ

の要保護児童対策事業)に就く上で、かつて捨てた医師の肩書きを再び引っ張り出してきてい

るのだろうか、と。

 音次郎は江ノ島海岸の畔で腰越医院を開業していました。母子家庭の母が入院加療を要する

とき「それなら子は妻に世話をさせよう」と、その娘を預かった事が発端となり、小児保育院

が日本に初めて生み出されました。その後、院内感染により我が子を含む犠牲者が出、「これ

は医者の片手間にするような働きではない」と、医療と決別し、現在の鎌倉佐助の地で児童福

祉の専門拠点として鎌倉保育園を設立しました。

 音次郎の保育事業が順調にいく中で、園児が近所の子供に不始末を犯したとき、音次郎は

土下座をするほどに自分たちの不行き届きをその親にお詫びしました。また、音次郎が開設し

た福祉施設は当時「孤児院」と呼ばれていましたが音次郎はその名前を嫌いました。その理由は

「たとえ立派ではなくても自分(音次郎)という親が、彼ら(園児)にはできたのだから、

もはや彼らは孤児ではない」とするものです。

 そんな謙虚な音次郎が保育園長という肩書きではなく医師という肩書きを使っていた。この

矛盾を私なりに想像してみました。

 1つは保育園の中でとにかく平等を追求した音次郎は自分の着物さえ園児達の生活水準(レベル)

に合わせた物でした。文明開化された明治時代の紳士(ジェントルマン)とは遠くかけ離れてい

ました。それでも対外的な任務も施設の代表であった音次郎には必要だったでしょう。自分の

衣服に掛けるお金さえ子供の養育費に回し、名刺に「醫士」と刻むインク代だけが彼の「装い」

だったのか。また、医学校時代の繋がりを最大限活用して彼は子供の「食い扶持」を稼ぎました。

「かつては私も君たちと同じ公僕だった」と、暗喩したのか。3つ目は当時、低年齢児の疾病

率・致死率が高く保育をする上で医師の肩書きは有益だったのか。

 今回の読み物では「醫士 佐竹音次郎」を見つめてみます。

 

1 きっかけ

 2025年7月6日日曜日午後。私は「アインシュタイン友情の墓碑」の前に立っていました。

そこには三宅速の墓があります。ここは徳島県美馬市。私が時々ピアノを演奏させていただい

ている三公(みきみ)記念館の近く。四万十川の沈下橋のように吉野川にも潜水橋があり、見学

する途上、たまたま見かけたアインシュタインの看板から興味本位にこの場所に辿り着いたの

です。

 前月、岡山で、音次郎と同じ医者であった石井十次の講演会に参加した直後でしたので、

三宅速も医師であり、しかも墓碑から音次郎、石井十次、三宅速が偶然にも1歳違いである

事に気付いた私は「きっと音次郎は三宅速も交流があったに違いない」と心を速らせました。

 それで音次郎の医師としての人脈を改めて調べるきっかけとなりました。

 保育の父・佐竹音次郎に出合ってから、私は歴史に関心が湧くようになりました。今までは

路傍の石などに気を払ったことはありません。音次郎に学び始めてからは昔のことを知り、

今を見直せるように成長でき、私にとって大きな恩恵がもたらされました。

 

2 外科医 三宅速

 「みやけ・はやり」は徳島・穴吹出身の医師です。この地になぜアインシュタインの碑文が

あるのか。これについては三宅速の墓碑に代弁してもらいましょう。

 

 三宅速博士墓碑

 1866年(慶応2年)~1945年(昭和20年)

 大正11年(1922年)国際外科学会に日本代表として参加し欧米各国の視察旅行から帰国する

三宅速博士(当時55歳)が日本の雑誌社改造社の招きで講演のため来日する世界的理論物理

学者として名声を馳せているアインシュタイン博士(当時43歳)とフランスのマルセイユから

神戸に向かう日本郵船北野丸に乗り合わせ、船内で発病したアインシュタイン博士を三宅博士

が治療したのが機縁となり、二人の間に友愛関係が始まり終生変わることがなかった。その後

三宅博士は昭和20年(1945年)6月29日米軍機の岡山市街の空襲によって、長男博氏宅の防空

壕内で三保夫人と共に没した。時に78歳、戦後の昭和29年(1954年)三宅夫妻の墓の建立を

聞き及んだアインシュタイン博士は友人の死を悼み心をこめて自筆の追悼文を寄せた。

 この碑文はアインシュタイン博士の直筆の追悼文をそのまま拡大したものである。

 

 アインシュタイン博士追悼文

ここに三宅速博士とみほ夫人が眠っている。

ふたりはともに人の世のしあわせのために働き、

そして世の恐ろしい迷いの犠牲となって

ともに亡くなった。

アルベルト アインシュタイン

(和訳 中央大学文学部教授 桑木 務)

 

 この2つの石碑は徳島県穴吹町(現・美馬市)舞中島の光泉寺の隣にあります。これを発見

して急ぎ、日誌佐竹音次郎を紐解きますと三宅医師が登場していました。「これは世紀の大発

見をした」と、再び心が速りました。ちなみに、気持ちがはやる事は通常「逸る」と書きますが、

ここでは三宅速の事を綴っていますのであえて「速る」と当て字をしております。

 繰り返しになりますが、音次郎、石井十次、三宅速は音次郎を年長に1歳違いです。同じ

医者同士という事になりますと同窓生かと想像できそうですが、違います。音次郎が医の道を

志したのは晩成だった。それは周知の事です。3人の出身校は、音次郎は医学済生学舎、十次は

岡山県甲種医学校、速は東京帝国大学医科大学でした。

 東京大学は1886年(明治19年、以下‘M’と記す)~1897年(M30)まで東京帝国大学と呼ば

れていました。音次郎の義姉・幸(妻・熊の実姉)は1900年(M33)東京大学医学部で小児科を

学んでいますので、その縁故関係により音次郎と繋がっていると心を速らせていました。

 

3 日誌に登場する3人の三宅氏

 日誌(活字版)には3人の三宅氏が登場します。まず1905年(M38)10月26日に音次郎の盟友・

益富氏から「朝鮮の女児3人を保護したので三宅氏に委ねるので後はよろしく」と、手紙が来

ます。ここでは三宅氏は姓しか記されていませんので後の2名と同一人物なのか第3者かは

分かりません。後の2名はフルネームで登場していますので音次郎日誌に三宅速が登場して

いるとすれば、これが唯一の可能性になります。

 ところがアインシュタインの友人・三宅速はこの時、既に福岡医科大学教授に就任しており、

この翌年には日本で初めて脳腫瘍手術に成功するという活躍ぶりです。「たまたま朝鮮に居

た」、あるいは「東京近辺に居て益富氏にお願いをされた」とは考えにくいでしょう。

 ちなみに三宅速はこの後開校した九州帝国大学の初代外科部長に就任します。京都帝国大学

の開学など全国に帝国大学が広がった事も医学済生学舎廃止の一因だと考えられています。

 他の2人の三宅なる人物は音次郎の事業を支援した三宅磐氏と、巣鴨病院副院長などを経て

東大医学部教授となる三宅鉱一氏です。音次郎や益富氏と繋がりのある三宅氏は、音次郎が

巣鴨小学校の校長だった事もありますので、どちらかと言えば3番目の三宅鉱一氏と1番目の

三宅氏が同一人物であるような気がします。

 但し、いずれにしましても現段階では手書き毛筆日誌がすべて解読できていませんので、

未解読の部分から三宅速が発見されるかもしれません。現段階においては、音次郎と速との

繋がりを心逸らせて推理した事は、私の逸脱した気持ちだったという事です。

 

4 三宅鉱一博士

 三宅鉱一氏が日誌に登場するのは1926年(大正15年、以下‘T’)8月17日です。音次郎の

12歳年下です。この日、音次郎は彼の児童心理の講習を聴いています。鉱一氏は東大医学部

出身で、同じ下田出身の弘田長、沖本幸と同窓生です。1923年(T12)9月1日の関東大震災で

義姉・幸は腰越医院にて圧死していますが、奉加帳により支援の輪を拡げていた音次郎が幸を

通して鉱一氏と繋がっていた事は想像できます。

 なお、沖本幸と弘田長については「音次郎会ホームページ」の、研究材料⇒2017鎌倉訪問

事業報告⇒鎌倉訪問事業の土産話、と順にたどって行きますと写真と共に詳しく記しており

ます。(ホームページから本紙をご覧の方は、ここをクリックすれば別画面で見る事ができます)

 

5 医学済生学舎と田辺猛雄

 音次郎が巣鴨小学校を辞して迂余曲折の後、「医は仁術」と悟り、医学済生学舎で学びます。

そこで田辺猛雄と出会います。聖愛一路では彼は「音次郎の親友」と書かれています。

 この医学済生学舎は江戸時代末期から日本に輸入された蘭学、とりわけ西洋医学を修める

為に長崎医学校などが開校されますが、1876年(M9)、長谷川泰(1842(天保13)-1912年

(M45))によって開学します。著名な卒業生に野口英世が居ます。また、夏目漱石の作品の

中では本学舎があった千駄木が詳しく描かれています。

 しかし済生学舎は1903年(M36)、突然、閉校します。これについては、北里柴三郎(2024

年からの千円札の顔/後の北里柴三郎の項で詳しく記します)を擁する学長の長谷川と、

北里を疎んじていた東大医学部との対立が遠因にあるとも言われています。閉校してから

数年間の迂余曲折を経て、医学済生学舎は日本医科大学として再建されます。

 対立説は後の日本医科大学学長である塩田氏の談ですが、一般的には長谷川は、にわか

仕立ての医学済生学舎では当時すでに高度に発展しつつある医学に対応できないと判断し、

自ら幕引きをした、と解釈されています。

 いずれにしましても、本学舎は佐竹音次郎や野口英世を生み出したのですから、社会的な

責任は充分に果たしたと言えるでしょう。

 医学済生学舎の同窓生である田辺を、音次郎は「親友」と呼びました。音次郎が医業を捨て

ようとした時、「東京から飛んできて諫めた」と、聖愛一路にあります。田辺が音次郎に理解

を示し「腰越小児保育院を支援する」と言いますが、すぐに「自分の意に沿わないから」と

断ったり、後に、最大限に田辺を頼ったりと、気の置けない仲だった事が聖愛一路から読み

取る事が出来ます。

 なお、音次郎と親友・田辺猛雄については「戦争孤児たちの戦後史」の「第3巻 東日本・

満州編」(吉川弘文館/浅井春夫ほか共著)の第9章「旧・満州での佐竹音次郎のとりくみ

と福祉施設の運営」で詳しく描かれております。

 

6 北里柴三郎

 北里柴三郎は2024年から日本のお札の顔になりました。音次郎より12歳年上です。千円札は

一番よく使うお札でしょうから「日本の顔」とも言えるでしょう。お気づきでしょうか?

ここまでに夏目漱石、野口英世の名前も登場しました。20年後に再び新札が発行される場合、

きっと次の千円札の顔は「保育の父・佐竹音次郎」になるというその繋がりが、もう、みな

さまの頭の中にも描けていますでしょうか?

 柴三郎は熊本の北里村出身で東京医学校、ベルリン留学を経て北里研究所(現在の北里大学)

を創設します。なお、時代によって名称が違いますが東京医学校も東大医学部の事です。

 音次郎との接点では、1916年(T5)7月25日、在園児童が狂犬に咬まれ地元の病院から東京の

北里の元へ連れて行きます。柴三郎は細菌学者で、当時、すでに破傷風の専門家として活躍

していました。

 柴三郎は講談「北里柴三郎伝」(弁士・神田あおい)でもその半生が読まれています。

悲喜交々、先に記しました東大医学部との対立も含めて読まれています。

 

7 まとめ

 三宅速のアインシュタイン友情の墓碑を発見した事から、音次郎の「医師」である側面に

注目させられました。残念ながら三宅速と音次郎の繋がりは、まだ、見いだせていません。

しかし医師・佐竹音次郎としての人脈を日誌に見てみますと、とても豊富な音次郎の繋がり

が見え、そのすべての人的資源によって音次郎の「保育」が実践されていた事が浮かび上が

りました。

 わたくし事、この春、事務局は降りざるを得ませんでしたが、これからも、一(いち)音次

郎会会員として、音次郎の魅力を掘り下げて行きたいと願っております。音次郎に、学び続

けたいと思っております。