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四万十市竹島出身・郷土の偉人                                                 最終更新:2018.11.24 Sat

TEL. 0880-33-0247

〒787-0155 高知県四万十市下田2211 若草園内

「保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会」ホームページへようこそ!

「保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会」は
日本ではじめて「保育」と言う言葉を使った、
まだ余り知られていない偉人を研究して福祉の心を学ぶ任意の団体です。
佐竹音次郎の肖像画。音次郎会で使っている一番標準的な音次郎さんの画像です。国からの褒賞を受けた時に撮影されたと言われている、和服姿。紋付き羽織袴姿です。背景には床の間なのか、掛け軸が見えます。

N,E,W 英語でニュー。更新された目印が点滅して知らせています。


1.活動報告に9-10月の記事がたくさんあります。
2.音次郎紹介のページに「高知の道徳」を掲載しました。
3.音次郎縁者からの史料第3弾が到着しました(↓)。


【 続けて届けられている音次郎の貴重な歴史的資料 】

音次郎会では念願だった音次郎の貴重な歴史的資料が、佐竹家縁者より寄贈されることになり、8月以降、続々と事務局に到着しております。これから目録を作成して系統的に整頓して管理していく予定です。

その中でも、今回は特に歴史的な価値が高いと思われる「芳名録」を紹介します。

音次郎は腰越医院を設立する傍ら、困っている母子に見かねて「小児保育院」の看板を掲げて保育事業(現在の児童養護施設)に着手します。ところが、不幸なことに院内感染により預かっている子供と自分の実子を亡くしてしまいます。痛恨の念に駆られた音次郎は一念発起し、保育事業に専念をします。これまでは医業で養育費を創出していましたが、縁故者からの提案により有名人の書画を頂いて集め、書画会を開催し、そこでの販売益で養育費を捻出するようになります。

この芳名録には、当時の有名人の名前が数多く登場します。音次郎が如何にたくさんの人々から賛同を得て、小児救済の事業に邁進していったかが手を取るように判ります。

この史料も募金によって購入できたスキャナーにより、電子化をしていく予定です。次回のメールマガジンで詳しくお知らせしますが、電子化にはたくさんの人手が必要となります。貴重な歴史的資料の電子化作業に協力してくださるボランティアを募集する予定です。

これからも保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会にみなさまのお力添えを、よろしくお願いいたします。


 写真ををクリックすれば拡大してみることができます。








鎌倉訪問事業の土産話 @「音次郎と横浜訓盲院」
横浜訓盲院の写真です。写真の下に文字が卒業記念撮影(昭和14年3月)と入っています。写真中央左に佐竹音次郎、右にドレーパー夫妻が座っています。背景にはすこしゆるやかな丘になっていて、その上に校舎が見えます。校舎の窓からは撮影の様子をうかがう子どもの姿も見えます。

佐竹音次郎が礎を築いた鎌倉保育園は、「孤児の父」と称される石井十次が展開した岡山孤児院と
同じ時代に設立されました。その大きな違いは、音次郎は保護する子供を「孤児」とは呼ばなかっ
ったことにあります。音次郎がその子の「父」として。妻・くまが「母」として、その子を育てる
のだから、もはやこの子は孤児ではない。保(やす)んじて育むのだから「保育院」である。そう
提唱しました。これが「保育」という言葉が日本で初めて誕生した歴史です。

音次郎が展開した保育園は今の保育園とは内容が異なります。乳幼児保育園の要素があり、児童養
護施設の要素があり、障害者施設の要素があり。複合的な児童福祉施設と言えるでしょう。

今回の鎌倉訪問で、音次郎の足跡を辿る中、盲学校と音次郎がつながっていたことも発見しました。

音次郎が晩年、盲学校の卒業式に参列している写真が見つかりました。
音次郎日誌には次のような記事があります。

T7.12.22 園父母鎌倉教会の礼拝に列する。4人の受洗者あり。ドレーパー博士の説教あり。
S14.2.27 岩崎氏横浜訓盲院に入院、退園す。

ドレーパー博士とは、横浜訓盲院の設立者です。音次郎会ホームページもこの事を契機に、視
覚障害者に配慮したホームページづくりをします。まずは、すべての画像に詳しい説明を付け
ました。(健常者には見えない改訂です)


鎌倉訪問事業の土産話 A「腰越のその後」

鎌倉市腰越にある神社・宝善院。音次郎の義姉・沖本幸子がここに眠っています。写真左は裏山にある沖本幸子の頌徳碑で、右側が寺の門です。以前は正門すぐの所にありましたが、裏山に移設されたそうです。

佐竹音次郎は、まず、腰越にて小児保育院を開設します。これが保育の言葉が初めて日本で文字となった瞬間の出来事です。それは音次郎が開業した腰越医院に併設されました。ところが、数年後、手狭になり、現在の佐助に鎌倉保育園として移転します。

さて、音次郎が開業した腰越医院はどうなったのでしょうか? それは妻くまの姉・沖本幸子が音次郎の事業を引き継ぎ、腰越医院の医療活動は継続されました。

沖本幸子は関東大震災にて一命を落とします。この腰越にある伝統的な寺院・寶善院(ほうぜんいん)には、彼女を顕彰する大きな石碑が建てられています。

写真左の裏山墓地で、ひときわそびえているのが、沖本幸子の石碑です。表には「其日のために」と刻まれています……(つづく)。


鎌倉訪問事業の土産話 B「沖本幸子の石碑」

沖本幸子の頌徳碑です。左半分が表面の写真で「其の日のために」と刻印。右側が裏面の写真で「頌徳碑」と刻印され、文面の写真もあります。文面は下記の本文の通りです。

沖本幸子の頌徳碑に刻まれている全文です。なお、文末には古文が苦手な人でも理解できるように語句の解説を付けています。古文書が得意の方には蛇足かも知れませんが、現代語に訳してみました。ちなみに、この碑文を書いたのは何と、同じく下田の偉人「弘田長」です。この関係性に、驚かされました。これも鎌倉訪問事業での収穫です。

「頌徳碑」

君、諱は幸子、沖本氏父を忠三郎と曰ひ、高知県幡多郡下田村鍋島の人なり。歳甫めて十四、笈を東都に負て明治女学校に入り又牧師植村正久翁に就きて基督教を修む。君夙に女子の独立を思ひ明治二十五年済生学舎に入りて医学を修め三十三年医術開業試験に合格し更に東京帝国大学医学部小児科に入り余に就きて小児科臨床学を修め日夜励精大に得る所あり、三十九年神奈川県鎌倉郡腰越に於て小児科及び内科医院を開く診療の確実と待遇の懇篤とを以て患者の君を敬慕すること慈母のごとく診療を乞ふ者陸続として絶えず盛なりと云ふべし矣。大正十二年九月一日関東大に震して医院に圧死す享年五十二歳、曽て君の治を受くる者之を聞き咸を哀悼し碑を建てヽ以て其徳を頌せんと欲し文を余に乞ふ余同郷の誼と一日の長あるとを以て辞せず、嗚呼君天資仁侠にして身を救済の事業に奉ず能く仁の術を尽すと謂ふべきなり。


諱(いみな=忌み名):生前の徳行によって死後に贈る称号。
曰ひ(いわく→言い)
甫めて(はじめて)
笈(おい):修験者などが衣類・食器などを入れて背負う、足の付いた箱。(今で言うランドセルやリュックのような物)
夙(しゅく):朝早く、草創期から。
矣(や)
曽て(かつて)
咸(みな):心を1つにする。
誼(よしみ):親しい交わり。
天資仁侠(てんしじんきょう):天来の資質として弱気を助け、強きをくじく。

 〜現代語訳〜
君の名は幸子、姓は沖本。父を忠三郎と言い、高知県幡多郡下田村鍋島の人なり。14歳ではじめて、リュックを背負って東京の明治女学校に入り、また、植村正久牧師に師事してキリスト教を修めた。君は、草創期から女子の独立を思い、明治25年に済生学舎へ入り、医学を修め、明治33年に医術開業試験に合格した。更に東京帝国大学医学部小児科に入り私(弘田長)の教えのもとで小児科臨床学を修めた。日夜、精勤して勉学に励んだ結果、明治39年に神奈川県鎌倉郡腰越において小児科及び内科医院を開く。診療の確実と待遇には心がこもっていて、患者のみなさんを大切にすること思いやりのある母のようであった。診療を求めて後から後から絶え間なく患者が訪れ、いつも病院には人が集まっていた。大正12年9月1日、関東大地震にて医院で圧死した。享年52歳、かつて君の治療を受けた者たちがこの訃報を受けて、心を1つに哀悼して、石碑を建てることによってその徳をたたえたいと、その文面を私(弘田長)に願いでた。私は同郷のよしみ(弘田長も下田出身)で、一日の長があるのでこれを受けいれた。
ああ、君は天来の資質のように弱気を助け、強きをくじき、身を救済の事業に身を捧げて、ほんとによく仁術(最高の徳)を尽したと言うべきだろう。






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