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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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【読み物シリーズ 1】
~2020年度音次郎会活動成果特別読み物~
「曽祢荒助のこころ配り」
原作:中平菊美/加筆:瀬戸雅弘
曽祢荒助(そね・あらすけ)は、第1次桂内閣で第10代大蔵大臣などを歴任した人物で
す。
『聖愛一路』(鎌倉保育園事業45周年記念誌、日能光子著、1940[昭和15]年版)61pに
は、鎌倉保育園が設立されるきっかけとなった出来事が記されています。その時に出
会った曽祢荒助氏との繋がりが、それ以降の音次郎の弱者救済事業の広がりを決定づけ
たと言っても過言ではありません。
この時、曽祢氏の深く心優しい気配りが、これからの音次郎の福祉事業が開いていく
鍵となりました。昨年1年の取り組みの中で発見された事実に基づき、1つの物語とし
てまとめました。
①曽祢荒助との出会い
開業した腰越医院に小児保育院と看板を掲げ、児童福祉事業に着手した音次郎だった
が開設から10年目の春、相次いで不幸が訪れた。水疱瘡、百日咳、麻疹と、恐ろしい伝
染病は幼児達に容赦なく襲いかかった。ついには2人の女児が命を落としてしまった。
そのうち1人は彼の四女愛子であった。
痛恨の極みに苛まれた音次郎は「そもそもこの狭い医院で大勢の子供を養育するのが
間違い」と一念発起。鎌倉の地へ移転を決意した。
幸いすぐに土地は見つかり、思いがけない寄付金にも恵まれ、敷地だけは確保でき
た。
建物の資金繰りに思いあぐねていたところ、1つの妙案が浮かんだ。これまでに音次
郎の事業に関心を持ち、協力を寄せる者があったが、その一人が子爵秋月新太郎(あきづ
き・しんたろう)(書号、古香)であった。秋月氏を通じ侍従長東久世通禧(ひがしく
せ・みちとみ)氏や大蔵大臣子爵曽祢荒助氏などの理解者を得られていた。そこで彼は曽
祢氏の門を叩くことにした。1905(明治38)年のことだった。
曽祢氏はこの時、第1次桂内閣で第10代大蔵大臣を務めていた。彼は亡くなった秋月
氏が音次郎に書画を寄付し、それを頒布することにより事業資金としていたことから、
音次郎に奉加帳を買ってくるように命じた。
音次郎の差し出した奉加帳に曽祢氏は「拙書額二百枚曽祢荒助」としたためた。そし
て音次郎に縁故者数十人の名刺を渡してこう言った。
「おれが二百書くからほかへ百ずつ願いなさい」
こうして集った天下の名筆2万点は翌年の春、音次郎の手によって広く一般に頒布さ
れ、鎌倉保育園の建設資金となったのである。
②なぞ
この詳しい経緯は『新版・聖愛一路』に記されているが、今まで保育の父研究の中で
「なぞ」とされていたことがあった。
それは、この奉加帳は2018年に他の歴史的資料と共に縁者から音次郎会に寄贈された
が、この奉加帳を作るきっかけになった
「拙書額二百枚曽祢荒助」
と記された、はじめの奉加帳が見当たらなかった。
話の流れから、曽祢氏が初筆を執り、奉加帳1ページ目の1行目に記したことと想像
される。しかし2冊現存している奉加帳の初筆は、1つは第4代及び6代総理大臣の松
方正義氏、もう1つは逓信大臣を務めた後藤新平氏であり、いずれも曽祢氏ではなかっ
た。
奉加帳の1冊にははっきりと「第4回 慈善書画会賛助 芳名簿」と記されているた
め、1つは第4回の物であると確定される。ところがもう1冊には回数の記録はなく、
記名部分の欄外に「第2回」や「第3回」とあることから、2~3回目の奉加帳だと理
解してきた。
そう考えると、曽祢氏が初筆を記名した奉加帳は行方不明となっている、と仮説を立
てざるを得なかった。
それと同時に不可解だったのは、第2~3回目の奉加帳の冒頭のページでは5人の名
前が連なっているが、その1人が誰なのか解らなかった。はじめから順に総理大臣・松
方正義、侍従長・東久世通禧、1人とばして日本画家でもある貴族院議員・宗重望、左
端に明治の3筆と言われていた書家・金井之恭。これだけ著名な4人が揃っているにも
関わらず、中央の3人目の人名だけはどうしても解読不能であった。
この奉加帳を入手してからというもの、あらゆる書家や歴史研究者に解読を依頼して
きたが、ついぞ分からず仕舞いだった。しかし、きっと中央の3人目の人物はこの4人
に並ぶ一角の人物には違いないだろうと考えていた。
③閃き
奉加帳に並んでいる人物名の読み取りは至難のわざだった。しかも、貴重な第1回の
ものは失われている。そして、冒頭のページの3人目がどうしても読めない。頼るべき
所には尋ねたが、ここへ来て万策尽き果てた。諦観の境地に至った。
その時、音次郎が時折体験したという霊夢のように、天から光が射し込むような心地
がした。
この3人目の筆跡が息を吹き返して踊るように目に飛び込んできたのだった。
「おれが二百書く」
この3人目の著名のすぐ上には、確かに「二百枚」と書かれており、その文字はハッ
キリと解読できていた。そして、さらにその上には「拙書額」とも記されていた。
左右に署名された松方氏と金井氏は「百」と記しているが、この3人目の人物だけは
「二百」と記していたのだった。
また、解読不明の署名の最後の文字は「助」らしいことも見えていた。
すると、二百枚の下に書かれた署名の1文字目が「ソ」に見えてきた。そして続く文
字が「ね」と見えた。曽祢氏の名前を崩して書いた時、「曽」の上の部分は「ソ」。そ
して曽祢氏の「祢」は万葉平仮名の「ね」の崩す前の元の文字だった。
この中央の3人目の署名、この崩し字を書いた人物こそが「わたしが『曽祢荒助』
だ」と、生きて語りかけて来たのだった。
また、これにより、この何回目の奉加帳か分からなかったものこそ、第1回目の奉加
帳と断定することができた。第1回目の奉加帳だからこそ、欄外に第2回や第3回の情
報を書き込むことができたという事がわかった。
④細かな心配り
「自分は二百枚書くから、他に百枚ずつお願いしなさい」
時の大蔵大臣・曽祢荒助は、音次郎を支援するために自ら骨を折った。自分の縁故者
に強いるために、自らはその倍を背負うことにした。ひと肌もふた肌も、音次郎のため
に脱いだのだった。
そして、奉加帳には前2人分を空けて、自分の名前は3番目に書いたのだった。それ
は、寄付を募るこの取り組みが成功する為には、元総理大臣の松方正義氏と侍従長東久
世通禧氏が先頭に来てもらうのが良いと考えての事だろう。曽祢氏は、
「自分よりももっと、右に来るに相応しい人がある。その方に、先に書いてもらいな
い」
と、音次郎に説いた。それは曽祢氏の心配りだった。音次郎への支援が最大限、功を
奏するように熟慮を重ねた結果だった。
これにより集まったのは276名からの2万点余の作品で、その販売純益約7千円が家屋
等施設代にあてられた。
音次郎は奉加帳を持って縁故者を回るこの活動に、はじめは乗り気ではなかった。し
かし、曽祢氏はそのような音次郎に対してこう叱責した。
「そんな弱気で移転などできるものか!」
この曽祢氏が見せた強気は、単に権力を振り回すだけのものではなく、音次郎の働き
に心底ほれて、自分のことのように弱者救済の事業をどうやったら良く展開できるか、
考えに考えた結果だっただろう。
自らが発起人でありながらも「3番目」に身を置くことにあまんじた曽祢氏の心配
り。これが慈善書画会成功への鍵となった事は論じるまでもないだろう。
注釈:曽祢荒助の名字は、旧書体では「曾禰」と書きます。それを現代の漢字では「曽
祢」と書きます。聖愛一路や一般的には「曽根」と記されることもありますが、今回は
話の流れの都合上「曽祢」の表記に統一しました。
:「③閃き」にある「その時」とは、2020年9月13日土曜日未明2:00のことです。