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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃1┃6┃

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          (名義)保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会 会長 中平菊美

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【読み物シリーズ 2】

 

     「藤ノ川の石碑が佐倉宗吾と

           佐竹音次郎をつなぐ!」

 

作:中平菊美

 

 四万十市西土佐の藤ノ川を訪れたことはあるでしょうか。国道441号線からの地区

への入り口は狭く、また行けども行けども人家を見ないことから、本当にこの先に集落

があるのかと思わされるでしょう。ところが集落に至るやいなや、山間地としては想像

できない程の水田が広がっていることに驚かされるし、豊かな暮らしぶりを感じさせら

れるのです。

 この藤ノ川のほぼ中央部に建つ河内神社の境内に「今城又兵衛記念碑」という石碑が

あり、そこには次のように刻まれています。

『今城又兵衛記念碑

翁ハ宝暦元年生ル性剛直情深ク先代で××里庄トナル当時作物ハ猪鹿ノ為大半ヲ乱サ

レ部民生活ニ窮ス翁之ヲ救フ為免租ノ出願数回辛フジテ半免容赦トナリ民ノ為ニ安ズ天

明七年ヨリ××四十四年ニシテ取消サル同時ニ御郡方ヨリ猪鹿ヲ防グ為濠及石垣ヲ造ラ

ル尚補米八石五斗ヲ賜ハル事三十年補米ニテ貧困者ヲ救ヒ余ヲ積立テ文久元年寺田及ニ

ノ又ノ原野六反ノ美田ニ拓キ得其偉功佐倉ニ比ス依テ永久ニ伝フル為是ヲ建設ス

大正十一年二月七日  紀元二五八二年

藤ノ川部民』

                             (註:×は読めない字)

 

 今城又兵衛記念碑を初めて見たのは1989年(平成元年)で、初めて訪れた時に強

く感じた「広い水田と豊かな暮らしぶりの予感」は、どうもこの碑がきっかけになって

いるように思われました。……と、今城又兵衛の業績について大変興味深いのですが、

このシリーズの範疇ではないのでここでは触れず、お読みいただく皆様のお楽しみに譲

りたい。

 注目するべきは碑文に、

 

「佐倉」

 

 とあること。そう。知る人ぞ知るあの有名な「佐倉宗吾」の一揆の話の「佐倉」なの

です。この佐倉宗吾と保育の父・佐竹音次郎が意外なところで出会っていたかもしれな

い「発見」がありましたので、しばしお付き合いをいただきたい。

 

①佐倉宗吾とは?

 

 碑にある「佐倉ニ比ス」とは、「佐倉宗吾」或いは「佐倉惣五郎」で通っている本名

「木内惣五郎」の業績に匹敵する、ということである。

 幡多に生まれ育った私には「佐倉惣五郎」だが、関東方面では「佐倉宗吾」が通って

いるようだ。地元では親しみを込めて「宗吾さま」と呼ぶ方が多いようである。「佐

倉」は地域名で、「宗吾」は惣五郎の百回忌にあたる1752年に佐倉藩主が先祖の非

を認め侘びと敬意をこめて贈った法号「宗吾道閑居士」に由来するようだ。

 佐倉宗吾の話が有名になったのは、江戸時代後期の1851年に上演された歌舞伎が

きっかけらしい。長い間、真偽不明の話とされてきたが、昭和30年代になり人物が存

在したことや処刑された記録が発見され、「必ずしも全てが創作された話ではない」と

されている。

 佐倉宗吾の話が後の時代にも影響を及ぼしたことは、藤ノ川の今城又兵衛記念碑だけ

のことではない。

 福沢諭吉は、

 

「史上最高の義民」

 

 と称え、宗吾は自由民権運動の高まりに影響したとされている。義民とは困っている

人を助ける正義の人を表す。

 また、日本初の「公害事件」として名高い「足尾銅山鉱毒事件」で、田中正造は改善

を国会等で訴えるが取り合われず、天皇への直訴を考える。しかし直訴は大罪であると

の認識等から躊躇する田中に、知人が「あなたはただ佐倉惣五郎たるのみ」と促し、

1901年明治天皇の馬車に直訴状を持って走り寄っている。直訴は成功しなかった

が、この顛末が新聞で大々的に取り上げられ世論を喚起することになったという。

 もう一例、子どもが好きな話の一つに『ベロ出しチョンマ』(1967年斉藤隆介

作)があるが、これは佐倉宗吾の話をもとにして作られたもので、現代の子どもにも間

接的ながら影響を与えていると言えよう。

 佐倉宗吾の話は数々あるようだが、史実を大まかにまとめれば、江戸時代の初期、佐

倉藩の村人たちは藩の悪政に我慢できず一揆を起こそうとした。その時、一揆を起こせ

ば本人ばかりか家族にまで処罰が及ぶ。そのことを案じた名主惣五郎は、村人たちを抑

え一人対応することにした。最初は藩の重役や藩主に訴えるが効果なく、ついには将軍

に直訴(正しくは駕籠訴)を行った。1652年12月20日のことらしい。これによ

り問題の解決はできたが、直訴の大罪からは宗吾一家は逃れられず、幼い子共々処刑さ

れた。これが主のようである。

 

②藤ノ川で佐倉宗吾に出会った驚き

 

 いかに有名であった話とは言え、新聞やラジオも行き届いていない、ましてやテレビ

やインターネットもなかった大正時代の藤ノ川に、

 

この山奥にまで佐倉宗吾の業績が伝わっていた

 

 ことに驚き、何時か佐倉を訪問してみたいと思っていた。私は「一揆は山間の地で起

こる」との根拠のない考えにあり、「佐倉もそういう土地ではないか?」と、確かめた

かったのである。

 2017年(平成29年)10月に音次郎会メンバーで鎌倉を訪問した際、私はそれ

に便乗して単身、待望の千葉県佐倉市の「佐倉宗吾霊堂」を訪れた。その際、宝物殿と

いう建物に陳列されていたある漢文を見た時、私は更に驚かされることになったのであ

る。

 

③佐倉宗吾霊堂で見た音次郎の影

 

 その掲示されていた漢文には、

 

「撫松」

 

 との書号が記されていたのであった。音次郎の漢詩人としての書号も「撫松」である

ことから、大変驚く出会いであった。

 ただ、この漢文の撫松が音次郎かどうかは確かめられていない。音次郎の著作物に

も、家族や近くにあった人物の記載物にも、「佐倉」を見ることは出来ていないのでも

ある。

 

④時代を超えた義民同士として

 

 さて、すでに余談のこととなってしまった感の訪問目的の佐倉の地形についてだが、

なだらかな起伏はあるが広々とした関東平野の一部である。また印旛沼の東端で水の豊

富な土地でもある。想像していた「山間の地」とは全く違う地形であった。

 音次郎の「保育事業」もまた、

 

「困っている人を助ける」という「義民」の行為

 

 と言える。音次郎が佐倉宗吾霊堂を訪れたと判明している訳ではないが、そんな生き

方の音次郎が最高の「義民・佐倉宗吾」を知っていて、敬意を払い、教えを受けようと

訪れたとしても不思議はない。それどころか、見えない力に畏敬の念を持ち、神を敬う

音次郎にあって、すでに「神」と敬われていた佐倉宗吾を参詣したのは当然とすら思わ

れる。

 今後はこの真偽について皆様の知見もお借りしながら究明していきたいと考え、読み

物シリーズに問題提起のつもりで取り上げてもらった次第である。

 藤ノ川の石碑が長い時と地の遠隔を超えて、

 

「義民・佐倉宗吾」と「保育の父・佐竹音次郎」

 

 をつないだという「想像」でおりなした話だが、楽しく目を通していただけたなら幸

い。史実に大きな間違い無いか、誰かに失礼が無いことを祈りつつ、併せて、お読みい

ただく皆様の寛容をお願いして終わりたい。

 

2021(R3).6.4 Fri

 

上下左右に4つの写真がある。上側は藤ノ川地区入口に広がる水田。左は藤ノ川小学校跡地横に存在する河内神社。鳥居越しに本殿がある。右には神社の境内と記念碑の背面が映り込んだ写真。なお碑文は現在ではほぼ判読不能となっている。下には今城又兵衛記念念碑のアップ画像。