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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃読┃み┃物┃シ┃リ┃ー┃ズ┃0┃3┃◆┃v┃o┃l┃.┃1┃6┃

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【読み物シリーズ 3】

 

  「警察署長殿! 養女のために音次郎は嘆願する」

 

                       作:瀬戸雅弘

 

 『日誌 佐竹音次郎』(1976[S51]年発行 鎌倉保育園事業80周年記念誌 以下、日誌

[新版]と呼ぶ)の中に「鎌倉警察署長宛願書草稿」という記事があります。かつては

「音次郎さんも、預かった子どものためにいろいろな手続をしていたのだな」くらいに

しか見ていませんでした。ところが、2018(H30)年8月17日に音次郎縁者から毛筆の日誌

(原本)が音次郎会に届けられ、新版と原本とを比較していると、そこに刻まれた音次

郎の熱い子どもへの愛情がよみがえってきました。

 音次郎は鎌倉署長に何を訴えたかったのでしょうか?

 音次郎は何を願っていたのでしょうか?

 警察署長殿に宛てた草稿から、保育の父・佐竹音次郎の心を読み解いてみます。

 

 

①大正6年11月29日 木 晴

 

 『日誌6(大正6)』(原本)の221ページ、および日誌(新版)157ページには1917年

11月29日の日記があります。活字にされた部分は願書草稿の部分だけですが、原本では

草稿の前後にも文章がありました。日付と天気が綴られて、始めに京城支部からの報告

に御礼のハガキを出したことが書かれています。その次に今回の嘆願書の部分がありま

す。日誌(新版)のこの日の全文は次の通りです。

 

山田トヨの戸籍に付持田鎌倉警察署長宛願書草稿如左。

 戸籍に関する保護願

原籍 不詳

現住所 神奈川県鎌倉郡鎌倉町大町六百七番地(註:鎌倉保育園の住所)

父 安一 三女 山田トヨ 明治二十九年六月十九日生

右山田トヨ儀 去る明治三十八年年齢九歳の頃、両親より扶養を受くる能はずして

鎌倉小児保育園に托せらるる事となり、自来園父佐竹音次郎実子同様なる教養の下に成

長し、本年十月七日年齢二十一歳四ヶ月にして、日能?太郎氏夫妻の媒介により岩本市

助と結婚の式を挙げ、目下保護者佐竹音次郎方に同棲中に候へども、父安一及母サダ共

に今より九年前失踪せる由にて種々探索せるも更に相判明せず、結婚の手続上困難相生

じ候間、何卒右失跡の有無御取調べ相蒙り度・戸籍謄本相添、本人及保護者連署の上此

段奉願上候也。

大正六年十一月二十九日

   右 山田トヨ

保護者 鎌倉小児保育園園父 佐竹音次郎

鎌倉警察署長 持田伊助殿

 

 原本ではこの後に、大正4年に山田安一氏(該当児童の父)に手紙を出したが戻って

きていたことなどを振り返って綴っているようですが、崩し字をよく解読しきれませ

ん。そして寄付金百円が堀越角次郎氏の執事より届けられたことも記録され、この日の

日記は「夜、園父上京ス」で終わっています。

 鎌倉警察署は2013年に現在地に移転しましたが、それまでは鎌倉駅東口の前にありま

したので、音次郎は園から駅に向かい、普段利用している西口ではなく東口にある警察

署に寄ってから夜汽車に乗ったのかも知れません。

 

②現代社会における無戸籍児童

 

 近年、日本の離婚率は欧米並みに上昇しており、2019年度の厚生労働省の調査による

と約35%になっています。結婚は家族形成の根幹になりますが、価値観の多様化によっ

て家族のあり方も多種になりました。これに関連してつきまとうのが子どもの扶養問題

です。

 かつての孤児院、現在では児童養護施設と申しますが、そこで生活を余儀なくされた

子どもの入所要因は様々です。孤児院という名前の時代には、文字通り戦争孤児や災害

孤児も多かったでしょう。また、家庭の貧しさが原因となったこともあったでしょう。

疫病や犯罪などによって両親や近親者を一同に失い、天涯孤独となった孤児もあったで

しょう。現代社会において増加の傾向があるのが離婚による両親の養育困難による入所

です。

 近年の児童福祉問題の1つに、無戸籍児童の問題があります。離婚に関する影響で、

産まれた子どもの出生届を「出さない」、「出せない」ケースです。現在の民法では

「婚姻中に懐胎した子、または婚姻成立後200日経過後もしくは離婚後300日以内に生ま

れた子は、元夫から嫡出否認の手続をとってもらわない限りは戸籍上の元夫の子とされ

る」と規定されています。このためDV(家庭内暴力)などにより離婚の手続きができ

ないない状況で新しい夫の子を出産した場合、母親が元夫からの被害を怖れて正当な手

続に踏み出せないケースで無戸籍児童が発生します。

 また、赤ちゃんポストや在日外国人が出産した場合でも無戸籍は発生するでしょう。

特に赤ちゃんポストは賛否両論ありましたが、親が育てられない嬰児が命を絶たれるよ

りも、せめて病院所定の場所に捨て子をすれば、親に成り代わって養育される命を守る

仕組みです。その子どもも、生みの親が名乗り出ない場合においては無戸籍となってし

まうでしょう。

 

③日本の戸籍制度

 

 「戸籍とは、人がいつ誰の子として生まれて、いつ誰と結婚し、いつ亡くなったかな

ど身分関係を登録し、その人が日本人であることを証明する唯一のものです」(法務省

の無戸籍リーフレットより)。

 日本の戸籍制度の歴史は明治維新後、徐々に整備されて現代の夫婦基本単位の戸籍に

至りました。かつては戸籍は家単位であり、その名残として戸籍の戸、つまり一戸、二

戸と家の単位を表す言葉です。細かな説明は割愛して、ここに戸籍の略史を記しておき

ます。

 

【明治以降の戸籍の歴史】

明治5年式戸籍(1872年式)

・日本初の本格的戸籍 ・実施年の干支に因み壬申戸籍(みずのえさる/じんしんこせ

き)とも呼ばれる ・身分表示があり差別を助長することから厳重保管されている

明治19年式戸籍(1886年式)

・屋敷番→地番を採用 ・出生・死亡・婚姻・養子縁組の記載開始 ・現存最古の戸籍

明治31年式戸籍(1898年式)

・家基本単位の戸籍制度開始 ・身分登記簿を併用する

大正4年式戸籍(1914年式)

・身分登記簿を廃止し戸籍簿に一本化 ・一人一人に両親・生年月日・続柄を記載

 ~ 第1回国勢調査1920年 ~

昭和23年式戸籍(1948年式)

・家単位→夫婦単位を基本に ・戸主→筆頭者に ・皇族・華族・士族・平民等身分事

項の廃止

平成6年式(1994年式)

・コンピューター管理方式開始

 

④日本の結婚手続きの今昔

 

 結婚は、現代では男子と女子の相思によって成り立ちますが、「家」が基本単位だっ

た当時は結婚を正式に成立させるためにはハードルが高かったようです。

 今日結婚をする男子と女子とは、証人2人の署名のある婚姻届を町役場(市区村の場

合はそれぞれの役所や役場)に提出すればよく、それが本籍地でなければ戸籍謄本を添

付しておれば、その瞬間に婚姻に至り、新しい戸籍が作られます。

 しかし当時の婚姻成立要件は、①男は満17年、女は満15年に達したこと、②現に配偶

者をもっていないこと、③女は前婚の解消または取消の日から6か月を経過したこと、

④姦通によって離婚または刑の宣告を受けたものは相姦者と婚姻ができないこと、⑤直

系血族間三親等内の傍系血族相互間の婚姻でないこと、⑥男が満30年、女が満25年に達

しない間は家に在る父母の同意を得ること、⑦家族は戸主の同意を得ること、⑧市町村

長に届出をおこなうこと等、多くの条件があり厳しい内容でした。

 

⑤娘の新しい未来のために

 

 音次郎は鎌倉保育園で育てた山田トヨも、自分の子どもと同様に大切に養ってきまし

た。しかし、そこに超えられない戸籍の壁が立ちはだかります。この養女がこれから新

しい家庭を築き、社会人として自立していくためにはどうしても戸籍が必要でした。し

かし、父母は失踪し、婚姻成立要件である⑥父母の同意や、⑦戸主の同意は得られな

かったのでしょう。そもそも養女・トヨはどこの戸籍にあるか、わからなかったので

す。

 現在でも、無戸籍の方が戸籍に記載されるためには、相当の手続が必要になります。

まず、町役場の戸籍窓口から法務局に相談するように案内されます。法務局では無戸籍

の方の母子関係を調べたり、関係者の聞き取りを行います。ここで認定するのが困難で

あると判断された場合は更に、母子認定の裁判手続に案内されます。いずれかの方法に

より母子関係が認定されれば、町長が職権により母の戸籍へと無戸籍の方を記載しま

す。現在でもこの手数ですので、往時は推して知るべしでしょう。

 日誌(原本)では冒頭の嘆願書の表題をどうしようか、「失踪」の文字も「戸籍」の

文字もあります。推敲を重ねた音次郎。失踪と戸籍の両方を書き、失踪を選んで丸をつ

けてから、その上で、更に戸籍に落ち着いたようで、もう1回戸籍の文字を書いていま

す。「取調願」と書こうか「保護願」と書こうかも迷っています。音次郎が、この願い

をどう伝えれば受け容れられるか、必死に考えていたことが見えます。

 これまで日誌(原本)を見ておりますと、音次郎は公式文書を提出する前に日記に下

書きをしてから、それを清書して提出していたらしいことが分かってきました。音次郎

は自分のことのように養女の、いや自分の娘の未来のため筆を走らせたのでしょう。

 音次郎は自分の戸籍謄本を添付して願書を提出しました。自分の戸籍にトヨを入れ、

名実ともに娘にしようとしたのか、それはわかりません。しかし彼は「鎌倉保育園には

孤児は居ない」と考えました。それは「いったん預かったからには、よそ様の子どもで

も自分の子どもでも隔たりのない一視同仁の育て方をしたい」との思いからです。

 ここに「保育の父」としての音次郎の生きた姿を見つけました。

 

2021(R3).7.28 Wed

日誌 佐竹音次郎の6冊目大正6年版の266ページを見開いた映像。上記説明文のように毛筆で何度も書き直したような跡が見える。