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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃
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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃1┃7┃
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【読み物シリーズ 4】
日本一熱い男・音次郎の日本一暑い日
作:瀬戸雅弘
音次郎の命日は8月16日です。日本では「お盆」の時季になりますがキリスト教で
はその概念がありませんので音次郎の命日がこの日になったのは摂理でしょう。
8月16日という日にちは不思議な巡り合わせの日で、少年音次郎が愛した故郷竹島
の松がその前日に不審火で焼けた日でした。辞世の句に描いた松と音次郎は運命共同体
でした。この日は暦の上では立秋も過ぎていますが日本では残暑厳しい時季でもありま
す。
暑さの話では8月16日といえば日本の最高気温記録を熊谷と多治見で74年ぶりに更
新した日です。音次郎の地元四万十市でも日本最高気温記録を2013年から2018年まで保
持しました。また2020年8月13日~15日は3日連続で国内最高気温を四万十市で観測しま
した。熱い男の故郷も暑いのです。
ちなみに74年間も国内最高気温だった場所は意外にも山形で、観測されたのは1933年
(昭和8)7月25日のことです。音次郎がまだ保育をしていた時代です!
音次郎は預かった子供も我が子と同様に愛情を注いで育てましたが、日本で長年破ら
れることがなかった暑い夏に、音次郎は子供たちとどう過ごしていたでしょうか? 音
次郎日誌から手掛かりを見てみましょう。
①暑気、甚シ
音次郎日誌20 昭和8年(1933)に、この様な記述がありました。
「七月七日 金・晴 暑気新京辺・甚シ 在新京」
音次郎日誌は通常、月日、曜日、天気が1行目に、2行目にその日の滞在地が記さ
れ、それから日記が綴られます。この日の書き方は異例で、天気の後「暑気甚(はなは
だ)シ」と付け加えられていました。
新京とは満州の首都のことで、このころ音次郎は満州の旅順支部に滞在していました
ので出張をした新京周辺が大変暑かったので、思わずその事を書き始めてしまったので
しょう。この1933年7月という時が、日本で長年破られることがなかった最高気温を記録
することになった月なのです。
②日誌の中の新聞切り抜き
音次郎日誌の中には新聞切り抜きをはじめ添付文書類が数多く挿入されています。そ
の大半が新聞記事です。音次郎が感じた暑さに興味を持った発端は、ある新聞切り抜き
が目に留まったことでした。日誌の中に1917年(大正6)7月2日、3日、21日の全国の気
温コラムだけがスクラップされていました。これを見た時に「昔の日本も暑かったのだ
な」と感じました。
また1933年7月9日の日誌には次のようなスクラップも存在します。
炎天下に曝される機会の多い夏は日射病で卒倒する者が相当あります。……(中略)
……なお脳貧血は衰弱している人、睡眠不足、過労、過度の心配、運動、試験勉強など
の場合に起こるものです。これは別に季節物ではありませんが、とかく夏は暑気のため
に過労し、身体も弱りますので大へん多くなります。脳貧血を起こしましたら静かに寝
ませ、頭を低くし……(後略)(満州日報? 1933.7.11? 第9782号)
音次郎も「暑さ」を意識していたのだなと思いました。
③音次郎の養育方針
音次郎が旅順支部を設立した時の要覧が現存していますので、それを引用しながら音
次郎の子育てに対する腹づもりを見てみましょう。
▲収容者処遇法
収容者は親子兄弟の処遇をなし純然たる家族の一員とし悉(ことごと)く基督教の
信仰により教導す。毎朝礼拝を守り冷水浴及深呼吸等の強壮法を行ひ以て心身の修養を
なす……(後略)
心身共に健康に心がけることが謳われています。この後につづく「▲一日の生活」で
は子供たちの日常生活が紹介されていますが、毎日入浴をさせることも書かれていま
す。近年でさえ児童養護施設では入浴介助をする職員の労力を省く為に子供の入浴が隔
日である施設もあります。それを考えると音次郎の取り組みは100年も先駆的でした。
要覧には取り立てて養育方針を記載してはいませんが、冒頭の「純然たる家族の一員
とし」の部分にすべての音次郎の愛情が込められているように感じます。
▲沿革
(前略)……不良児の感化方も依託を受け此仕事も兼る事となり、是等幼少年の増
加するに従ひ保育衛生上甚数々不便を感じ大正六年関東都督府よりの補助金、恩賜財団
よりの下附金、満鉄会社及大連銭鈔公司よりの寄附金等を以て現所在の地に支部家屋を
建築……(後略)
ここには「保育衛生上甚(はなはだ)数々不便を感じ」との言葉があることから、音次
郎にとっては子供たちが健やかに育つ生活環境を常に改善することは「言わずもがな」
だったのでしょう。
現存する音次郎の名刺には、肩書きの部分に「財団法人鎌倉保育園理事」、役職名の
部分には「醫士(いし)」と記されていました。医学的見地からも子供たちの健全育成を
常に考えていたことは想像に難くないでしょう。医者であった音次郎は保育へと路線変
更しました。
④気温測定の歴史
日本では1875年(明治8)に気象庁の前身東京気象台が気象観測を開始します。英国人
が英国から機器を取り寄せて始めました。1884年(明治17)から天気予報が毎日発表さ
れるようになり、当時の新聞は紙面が少なかったので欄外に臨機応変に掲載されまし
た。このコラムが1917年の音次郎日誌にスクラップされていました。
日本で正式に気温の単位に摂氏を採用するようになったのは1882年という記録が気象
庁に残されています。はじめは英国の機器を使ったので気温は華氏でした。単位を世界
的に考えると、1875年にメートル条約が締結され、日本は1885年に加入します。しかし、
21世紀の現在でも建築現場では尺貫法(特に長さは1.8m単位を使い続けていますね)が
残っているように、戦前の日本では気温の単位も実社会では一般的にずっと華氏で表現
していました。ちなみに、音次郎の著書に『結核征伐』(1902年8月26日発行)がありま
すが医師・佐竹音次郎は本文中では温度の記載に関してはすべて摂氏で統一していまし
た。これには「さすが」と思わされます。
1933年7月26日の山形新聞は「歴史的のあつさ 華氏105度全国一の高温 測候所でも
驚く」と、綴っていました。記事中には正確に「華氏105.5度」とあり、換算すると摂氏
40.8度になります。山形は地形の影響でフェーン現象が起きやすく、この日の最高気温
はまぐれで発生したのではなく、1962年8月3日に38.8℃、1978年8月2日に38.4℃、1994年
8月13日にも38.9℃を記録しています。
旅順も山形と同じ北緯38度に位置します。音次郎が「暑さ甚だし」と言った1933年の
夏は全世界的にも暑かったでしょう。
⑤おじいちゃんとしての音次郎
日本で最高気温を観測し、翌日山形新聞で報じられた日の日誌は次の通りです。
七月廿六(26)日 水 晴 <在旅順 余の常>
{夏期休暇中の小学生の行事を、本日より}男子は朝起床と午後四時の二回冷浴を
為し、其間に復習あり、前後各一時間づつ除草作業を為す事とす。但し本日は午後の作
業時間を釣魚に遊ぶ。祖父も釣竿を贖うて御供す。六十年目程にして<初めて>釣を垂
れて遊ぶ事をす。
七月廿七(27)日 晴 <在旅順 余の常>
<昨日と変り祖父も冷浴する機会を恵まれて男女の児童と共に幸を得>
註 <>で囲まれた文字は日誌(新版)には記載がなかった語句。
{}で囲まれた文字は日誌(原本)には記載がなかった語句。
音次郎の紋付き羽織の写真を肖像としてよく用いますので、それが音次郎の印象とな
っています。ともすれば堅苦しく、また、内務省の会議において先駆者であった石井十
次に真っ向から反論した事、妻を厳しく夜中まで教育した事などから、音次郎には「怖
そう」な印象さえあります。しかし、人生で初めて釣りに興じ、その翌日は子供たちと
共に泳ぐ69歳の音次郎は好々爺でした。
ひたむきに万人の父となるべく一心で走ってきた音次郎の最晩年に、園庭には辞世の
句碑が完成し、そこで幼子と遊ぶ音次郎の姿が映っている写真があります。そこには、
穏やかに笑う音次郎の顔を見ることができます。その表情は孫と接する「おじいちゃ
ん」そのものです。
「孤児」ではなく「保育」だと主張して切り開いた児童福祉の道です。音次郎が保育
に懸けた情熱は誰よりも熱いものでした。その音次郎は日本一暑かった日に、子供たち
といっしょに釣り竿を垂れ、いっしょに泳いでいました。それは、自分の子供を愛する
世の親のそれと同じです。しかし音次郎は施設に居る子供に、分け隔てなく同じ愛情を
注ぎました。それが「保育の父・佐竹音次郎」なのです。