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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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┃ ┃音┃次┃郎┃会┃◆┃I┃N┃F┃O┃◆┃v┃o┃l┃.┃0┃9┃

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          (名義)保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会 会長 浦田一雄

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          (名義)保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会

 

 最近の何よりものよろこびは、インターネットで「保育の父」と検索すれば、先頭に「保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会ホームページ」が表示されるようになったことです。年末には英語ページも完成したことから、更なる閲覧増加が期待されます。中国語・韓国語ページは3月までに完成する予定です。ともあれ、皆様が閲覧してくださったおかげさまで、検索上位に来たのは間違いないことです。ありがとうございます。

 

 保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会(通称:音次郎会)から会員の皆さまに会報(メールマガジン)をお届けします。

 

 今号では、定例会の報告、広がる人脈、来年の話題が中心です。

 

◆◇INDEX◆◇

 

【1】お知らせ(2月定例会、ボランティア募集)

【2】行事報告(10月定例会、横山充男交流会、12月定例会)

【3】広がる人脈つながる

【4】2019年音次郎会の抱負

 

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【1】お知らせ(2月定例会、ボランティア募集)

 

 ●2月定例会の御案内

 

日時:2月9日(土曜日)午後2〜4時

場所:四万十市立 中央公民館 3階 研修室3

内容:音次郎文書の活用

 

 ●音次郎史料電子化作業のボランティア募集

 

 音次郎会では待望の毛筆日記を含め、数多くの貴重な史料が縁者によって寄贈され、整頓作業を進めております。それと同時に、電子化の取り組みも始めております。

 前回の通信で募集しました電子化のためのスキャナー募金は御蔭様でほぼ目標額を満たし、機材を購入する事が出来ました。ありがとうございました。

 この作業はパソコンの知識がなくともできるボランティアです。資格は唯一、歴史的に重要な書類を大切に取り扱う気持ちがあるという点だけです。取り組む期間や時間帯は応談します。興味のある方はまず事務局へご一報下さい。

 

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【2】行事報告(10月定例会、横山充男交流会、12月定例会)

 

 ●10月定例会『桑原戒平と沖本忠三郎』

 

発題:田中 全さん(元四万十市長、現幸徳秋水を顕彰する会事務局長など)

日時:10月13日(土曜日)午後2〜4時

場所:下田の若草園

 

 音次郎は鍋島小学校教師を経て高知の海南学校入学し、小学校高等科教員検定試験に合格します。その後、軍人を志望して上京しますが、年齢制限により入学が許可されず、時の北豊島郡長・桑原戒平の書生を経て、巣鴨小学校長に斡旋され就職します。

 音次郎がお世話になった戒平は晩年、鎌倉に移住し、音次郎夫妻と共に鎌倉教会に通いました。田中さんはその娘・清(せい)さんの手記を発見し、そこから音次郎に関する記述なども紹介して下さいました。

 沖本忠三郎は音次郎の妻・熊と夫妻とその姉・幸子(後に音次郎が廃業した腰越医院を引き継いだ女医)の父。壮年期に間崎から鍋島に全戸移住しますが、一家の墓は腰越にあります。郷士(中堅官吏)として熊本、大分、大阪、長野などで活躍します。

 なお、講演後の質疑応答の中での疑問点「熊の住所」について、その後の調査により判明しました。熊は明治28年9月、東京私立精神塾を中途退学して11月に音次郎と結婚します。当時は熊も在京していたことになります。(鎌倉保育園45周年記念誌より)

 16名参加。

 

 ●横山充男交流会『音次郎の史跡巡りと交流夕食会』

 

ゲスト 児童文学作家 横山充男さん

日時:10月28日(日曜日)午後3時

場所:四万十市竹島の各史跡と厨房わかまつ

 

 史跡巡りでは@音次郎の生家跡地、A旧竹島神社の夢の碑、B宮村家墓地横にある音次郎の墓、C竹島集会所の辞世の句碑を訪れました。その後、届いた史料を閲覧しました。

 

 生家では、県道沿いにある竹島小学校の児童が10年ほど前に製作した生家を記す木製看板や、敷地内にある大久保利武の筆による記念碑を見ました。彼は大久保利通の三男で、石碑は昭和16年1月15日に鎌倉保育園関係者によって建立されたものです。

 夢の碑では、竹島神社が廃殿になった後、隣地の菩提寺が墓地を拡幅するために、当初据えられていた本殿に向かって左側から、現在の右側に移設されたことが説明されました。

 音次郎の墓は、鎌倉には法人が設置した立派な墓がありますが、こちらは音次郎の遺言によって分骨されて建立されました。宮村家の立派な墓の隣に、質素に佇む墓石は音次郎らしさを物語っています。音次郎研究者の故・乾綾雄さんが伝えるこの墓の様子とは外観に違いがあるため、別の墓石があったのではないか等、歴史ミステリーが潜んでいます。

 竹島集会所には音次郎が幼少期から愛していた、辞世の句に詠い込んだ松があったとされています。しかし、聖愛一路などに記載されている生家から松の所在地に対する方角の表記が実際とは異なっているため、果たしてここに植わっていた松と、音次郎が愛していた松とが同定されるのかどうか、ここにもミステリーがあります。

 

 夕食会では、音次郎歴史ミステリーを感じつつ、音次郎会の夢を楽しく語り合いました。

 

 ●「続々届く音次郎資料アラカルト」報告

 

 音次郎会12月定例会では到着した史料第3弾の中から事務局・瀬戸の視点で、届いた史料を取り上げて紹介しました。桐のような木箱の中には明治43年に初めて受け取ってから定期的に頂いた宮内庁からの「下賜金」の目録などが多く含まれていました。はじめのものなく、最古のものは大正13年でした。

 また、音次郎が資金集めに奔走した募金袋の現物や、「創立以来経営苦心の記録書類」という角2茶封筒には鎌倉銀行などの借用書がたくさん入っていました。また別の封筒には地所売渡約定書や領収証も多くあります。

 お中元手当(今で言うボーナス?)の受領書もありました。時節柄の話題としましては、鎌倉保育園の年賀状もありました。これはホームページで画像を掲載中です。

 また、資金集めに開催した書画会での書画の実物か、水墨画も1枚入っており、今後鑑定をしたいと思います。

 

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【3】広がる人脈つながる

 

 ●台湾支部の音次郎

 

 12月に入って、ホームページのメールに台湾での音次郎の足跡に関する資料が届きました。差出人は御父母様が台湾から引き揚げられたので、そのルーツ調べをされている方です。その途上で音次郎とご家族に姻戚関係があることを発見され、音次郎会が歴史的な音次郎に関する資料を求めていることをインターネット上で知り、届けてくださいました。

 

 何度かやりとりする中で、その方は音次郎存命中の台湾支部代表・三井たまが大伯母にあたる方であることが分かりました。その方は三井たまの自叙伝を所有されており、その中にも音次郎に関わる記述がありました。

 台湾支部設立の経緯は聖愛一路にも記されておりますが、今回届いた資料には、当時の台湾総督府へ音次郎が提出した申請書類の画像なども含まれており、実務的な面で台湾支部設立の背景を研究するために有益な資料です。

 

 三井たま(たま子、と記す場合もあり)の存在は、音次郎が発行していた有料年報「保育乃園」の役員名簿にも記載されており、歴史的なつながりが証明されます。

 台湾支部は本部や他の支部と違い、通所型事業である幼稚園運営を主体として発展します。途中、手狭になり、台湾支部が移転しますが、事業開始時に用いられた舜帝廟(しゅんていびょう)の敷地内には現在も私立幼稚園が存在し、音次郎からはじまった児童福祉が現代へと受け継がれています。

 また、評議員として名を連ねている三井栄次郎は三井たまの夫であることも今回のやりとりで判明しました。三井夫妻は神戸のキリスト教会で結婚し、台湾に来てからも教会生活を続けていましたので、音次郎との接点は教会にあります。

 三井栄次郎は貿易に関する政府の高官でした。台湾総督府が再建した舜帝廟を音次郎の事業のために貸与したことなどと合わせ考えますに、音次郎の事業は当時、政府から大きな理解を得られていたことを感じます。

 

 現在、音次郎会では地元での音次郎の足跡でさえままならない状況で、紺屋町地籍調査さえ進んでいない状況です。やがて海外各支部の研究も視野には入れておりますが、ホームページの存在を通して、このように情報が寄せられることはありがたいことです。

 

 皆様も、それぞれ関わっておられる専門分野において、音次郎との接点を発見されることもあるかも知れません。その節には音次郎会へ情報提供をよろしくお願いいたします。

 

 ●桑原戒平子孫が来訪

 

 10月定例会のテーマであった桑原戒平と音次郎の研究に関連して、11月に戒平のひ孫さんが音次郎会事務局を訪問してくださいました。そして音次郎の史料を見学されました。

 

 竹島の宮村家で生まれた音次郎は、貧困な時代の運命に翻弄され、紺屋町に養子に出され、そこで佐竹姓を受け継ぎます。当時はどの家系もそうですが、家督相続のために、養子縁組が盛んに行われておりました。音次郎が養子に入った家系も、桑原海平や幸徳秋水の家系と近く、それぞれ相互に姻戚関係があります。

 当時、大切に守られてきたそれぞれの家系がありました。

 

 ところで、音次郎会の目的の中には「保育のまち・四万十構想の発信と定着化」があります。保育という児童福祉分野では昨今、待機児童問題など社会問題の部分にばかり目が行きがちですが、本来、保育には次の時代を担う子供を大切に育てる目的があります。その対極にあるのが児童虐待問題です。

 時代がかわり、家柄を守るためだけの封建制度から自由主義が生まれ、個人主義が発展しました。その反面、孤立無援社会も生じました。

 「保育のまち構想」には、次世代をつなぐ縦の関係を大切に考える意味も、現代に生きる私たちもどこかで誰かとつながっている、横の関係を大切する意味もあると思います。

 

 音次郎は、孤立してしまった子供たちを自分が父親となって育て、その命をつなぎました。子供たちに失われた縦の関係を回復すると共に、活動の支援を求めて社会に横の関係を広げました。音次郎が何よりも大切にしたかったのは、もしかした人と人とのつながりだったように感じます。音次郎会ではその音次郎の「福祉のこころ」を見つめる取り組みを続けて行きたいと考えています。

 

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【4】2019年音次郎会の抱負

 

 ●四万十市市民大学への音次郎コマ誘致活動

 

 音次郎会では毎年、広く市民に「保育の父・佐竹音次郎」を知っていただくために、市民大学への音次郎講座誘致活動を行っております。残念ながら2015年に高知大教授・玉里恵美子氏に講演していただいて以来、成功しておりません。

 今年度は幸徳秋水を顕彰する会と連名で次の内容で四万十市へ要望をあげております。

  講師:山泉進さん(明治大学名誉教授)

  演題:幸徳秋水と佐竹音次郎

 山泉さんは四万十市出身で、佐竹音次郎についても研究されおり、論文も発表されています。音次郎は秋水の7歳上ですが、上京後に接触交流があります。秋水処刑直前、秋水の母・多治が上京した際、音次郎が多治の世話をしています。2人の接点と、互いの思想と行動の共通点と相違点などについて、お話をいただきたいと思います。

 

 ●5月10日音次郎生誕155年の講演会

 

 毎年、音次郎生誕日に開催しております講演会ですが、2019年は昨年、四万十市民大学に推薦しておりました市川隆一郎氏にお願いすることで準備しております。

 市川氏につきましては過去にメールマガジンでも紹介しておりますが、神奈川県相模原児童相談所長、神奈川県立国府実修学校長などを歴任され、2年前に音次郎についてご自身の著書に取り上げてくださっております。今回は若草園の園内研修ともタイアップして実施できるように計画しております。

 

 ●整備されるリーフレット類

 

 平成30年度に高知新聞厚生文化事業団から助成事業として認可されて、もっか製作に取りかかっております『竹島の偉人』(〜児童福祉に生涯を捧げた佐竹音次郎「夢」碑の由来〜)パンフレットに加えて、中村高校漫画研究部がイラストを担当してくださった観光リーフレットも発行に向けて準備中です。

 いずれも、まだ認知度が低い「保育の父・佐竹音次郎」を地元から発信していく為の取り組みです。インターネットと併用しながらクチコミでも音次郎の足跡を伝えていくために、活動を続けたいと考えております。

 

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 現在の会員数 97 名 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

2019.1.10 Thu

 

  日本で初めて「保育」という言葉を生み出した「佐竹音次郎」に関心のある方、入会希望者のご紹介など、お気軽にご一報ください。高齢化により、会員数が自然減 している現状です。事務局から案内をお送りします。

 

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   │保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会│    会長 浦田一雄

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 各種お問い合わせは →→→ 四万十市下田2211(若草園内)

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