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┃保┃育┃の┃父┃・┃佐┃竹┃音┃次┃郎┃に┃学┃ぶ┃会┃★┃通┃信┃

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【読み物シリーズ 5】

 

音次郎が目指した軍人とは?

 

作:中平菊美

 

 音次郎は生まれる前から親戚である中村町の佐竹友七・馬夫婦にもらわれることが決ま

っており、宮村家に生まれながら宮村姓を名乗ることがなかった悲運の人である。養子に

行っても程無く養父母が離婚となり多感な少年の心を痛める。またその後郷里に呼び戻さ

れては、本人の意向を問うこと無く、音次郎を思う親の気持ちから農作業にあたらされ、

自分は何のために生を受けているのかと思い悩む。

 このような苦悩の幼少期を経て、17才の頃に「自分のように悩みを持つ子たちの支援

者乃至は保護者になる。」と決意をするに至る。最初は教員免許を取得し郷里の小学校に

勤めていたが、決意したことに十分な道ではないと気付き、軍人を目指している。先ず軍

人養成色の強い高知県立海南学校で1年間学んだ後、更に上級軍人学校を目指し上京した

が年齢的に受け入れられず軍人の夢は果たせなかった。

 「聖愛一路」にも、音次郎は幼い頃に腰に棒きれを差して軍人遊びをする姿が紹介され

ていて、軍人に憧れを持っていたことが伺える。

 彼の決意と軍人とは結びつきがたく、どうしてであったのか解明したい課題の一つであ

る。

 

①軍人観

 軍人に関して、音次郎が見聞きしたこととしては熊本の神風連の乱や佐賀の乱、西南の

役、徴兵制度の施行もあるだろうが、最も影響を受けたと考えられるのは、4才の頃の戊

辰戦争ではないだろうか。中村町やその周辺からも多くの人物が官軍として参加しており、

安岡良亮、谷神兵衛、谷口伝八、桑原戒平、佐田家親、桑原平八、沖本忠三郎、吉松茂太

郎等を見たり話に聞いたりしたのかもしれない。

 彼らの多くは武士(郷士)や庄屋の出で地域の名士である。その上に、正義の為に命を

かける姿は憧れの的で、人々は彼らの言動を尊敬の眼で見聞きしたことであろう。もちろ

ん幼い音次郎もそうであったに違いなく、それが軍人遊びとなって表れているのではない

だろうか。

 音次郎が戦の場を見ることはなく、死んだり負傷して苦しむ姿を見ることはなかった。

有ったのは、誰もが注目する「ひとかどの人物」の評価だけで、戦士ではあるがそれ以上

に正義を行う人というのが音次郎が抱いた軍人観であったのではないだろうか。つまり、

音次郎が目指す生き方「幼い者を中心に、困っている人を助ける人に」を行えるのが軍人

ととらえられたのではないだろうか。テレビは元より新聞やラジオすら及んでいなかった

環境であったことから、音次郎が軍人を志望したのは見聞きしたことから導き出した結論

であったのだろう。

 

②環境の違いがもたらす結果

 現代の者からすれば、何故軍人でない道を考えられなかったのかと不思議に思うところ

であるが、情報の入手が難しい環境であったことから、自分の目と耳に頼るしかなかった

であろう。そうした中で軍人が自分の決意を最も可能にできる職と受け止められたのであ

ろう。

 もし環境が違っていたならば、情報の入手も違い、別な道を考えたかもしれない。

 

 

§ 追跡記事 §

 

 

   『新版 聖愛一路』26p「その生い立ち」より抜粋

    なお、その当時は会津戦争の直後とて、これに出陣してきた兵士二、三人が界隈

   切っての英雄ともてはやされていた。彼らが竹刀を腰に、肩で風を切っては闊歩す

   るのも音次郎の羨望の的で、彼もまたこの勇士に倣って、いちび殻――麻の緒をつ

   くった残り――を竹刀代わりに腰に手挟んでは歩き回って喜ぶのだった。

 

    同33p「教員時代」より抜粋

    時は明治十九年のころ、当時の国情は民権思想の勃興により全国至る所に政治の

   論議が旺盛を極めていた。ことにその中心たる土佐にあっては、青年の多くは競う

   ように政党に走った。こうした環境の中に音次郎は独り武人を志し、婚家から帰る

   と一ヵ年を海軍学校に学び、その後、郷里を離れて東京に出た。ところが年齢の制

   限に妨げられて軍籍に入ることを許されなかった。せっかくの志も空しく、知る者

   とてない都の真中に放り出されて途方にくれた彼は、まもなく同郷人で東京の一郡

   長の職にある某氏の推薦によって板橋の巣鴨小学校長の椅子に就くことになった。

 

   ※ 抜粋文中の「東京の一郡長の職にある某氏」は、本文中に軍人として登場する

   桑原戒平のこと。桑原氏は1886(明治19)年8月~1886(M21)7月まで3代目北

   豊島郡長に就任しており、音次郎上京の年と一致している。なお桑原氏は北豊島郡

   長時代には板橋在住で書生を3人受け入れている。その中に佐竹音次郎が存在した。

   やがて音次郎が東京府尋常小学校教員検定試験に合格したので音次郎は巣鴨小学校

   へ教師として就任した。

 

   メディア小史

    全国的には読売新聞が1874(M7)年11月2日に創刊、高知県では土陽新聞が1877(M10)

   年に創刊される。日本初のラジオ放送は1925(T14)年3月22日のこと。さらに1939

   (S14)年3月に日本でNHK放送技術研究所によるテレビ実験放送開始。