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四万十市竹島出身・郷土の偉人

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辞世の句碑の説明

辞世の句碑文字の拡大写真
1939年(昭和14年)9月、佐竹音次郎が最後の帰郷時、老松が存在していた場所(現在の竹島集会所の敷地内)に、音次郎は辞世の句碑を建立しています。この老松は、1940年(昭和15年)8月15日、失火によって焼失してしまいました。くしくも、老松が焼失した翌日(8月16日)音次郎は天国に旅立っていきました。

  佐竹音次郎辞世の句碑 →
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◆ 句碑の記載内容
辞世の句  撫松
 己れ死なば死骸は
松の根にうめよ
 我がたましひの
松のこやしに

 「撫松」(ぶしょう)は雅号で、辞世と切り離して読みます。
意味:音次郎は幼少時期からこの老松をいつくしんでいました。この心の支えとなった松に、自分の死後はせめて松の肥料となるように、根本に埋めて欲しい。
 これを裏付けるものとして、音次郎はこの老松について
「我を生みしものは父母、我を育てし者は老松なり」
 とも歌っています。これは比喩的表現で、実際には音次郎の亡骸は火葬され、遺骨は鎌倉霊園に、また竹島墓地にも分骨されています。

◆ 句碑のデータ
高さ(歌碑のみ)60cm
幅       42cm
全体の高さ   80cm
材質   自然石
設置場所 高知県四万十市竹島1010-3 竹島集会所広場内
設置時期 1939年(昭和14)9月19日?


 現在、辞世の句碑は集会所敷地内の東側(川沿いのフェンス付近)に置かれていますが、老松が焼失する以前は老松の植えてあった場所に置かれていたそうです。
(老松焼失より、句碑移動で中央の杉の木の根元に来る。2022年3月、案内看板設置に伴い現在の場所に再び移動)

 老松は、現在の敷地中央にある杉の木から南東、おおむね10メートル程離れた位置に植えられていたようです。写真は集会所敷地の外、南東側から北西にむけて撮影しているものと推測されます。したがって、現在の杉の木は老松の後方に位置するために写っていなのでしょう。

撫で松と呼び音次郎が愛した老松の白黒写真。松の木らしく太い幹から左右に何本が枝分かれしていてその先先に葉が茂っている。ありし日の老松 集会所中央の杉の木の根元にあった頃の辞世の句碑直前の辞世の句碑の設置場所
辞世の句碑設置場所の引越履歴の図表。集会所敷地の南端に松と共にあったが、焼失後は中央の杉の木の根元に来るが、2022年3月、東側の川沿いにあるフェンス近くに落ち着く。辞世の句碑設置場所履歴 辞世の句碑の大きさを示す図で、台座を含めての高さは80cm、句碑のみの高さは60cm、幅は42cm。現在の写真なので文字はほとんど解読できない様子。辞世の句碑の大きさ
竹島の辞世の句碑が完成したのち鎌倉にも歌碑が完成する。音次郎が台座に座っている記念写真。鎌倉の辞世の歌碑(完成時) 現在の鎌倉の歌碑。鎌倉保育園後進の施設「鎌倉児童ホーム」の玄関に設置されている。現在の鎌倉の歌碑



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かっこいい毛筆書体で音次郎会と書かれてあります。 題字:林 博氏