1876年(M9)紺屋町から竹島に戻ってきた12歳の音次郎は将来に悩み、ここで三日三晩丑の刻詣りをしました。最後の夜、夢を見ました。
小児保育院開設後の1900年(M33)にも療養のために竹島に戻っています。この時に音次郎は「夢」一文字に自分の思いを込めてこの碑を建てたようです。まだ詳細がわからない謎の多い石碑です。
佐竹音次郎夢の碑 →
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◆ 夢の碑のデータ
高さ(碑のみ)118cm
幅 57cm
奥行き 116cm
全体の高さ 139cm
材質 自然石
設置場所 高知県四万十市竹島3695 旧竹島神社境内
設置時期 1901年(明治34)3月?
◆ 場所と内容
廃殿となっている竹島神社の境内の社殿に向かって右手に石の大きさに比べて小さい草書体の「夢」一字のみが刻まれた石碑がある。2006(平成18年)頃までは左手にあったが、隣接する墓地の拡張の都合からか現在の場所に移された。
なお、音次郎生前の竹島神社は天満宮あるいは天神宮とも言われており、現在は岩越四所神社(竹島3699番地)に合祭されており、今では廃社となっている。
◆ 資料
保育事業に全てを捧げる音次郎であり、身なりをはじめ私生活全てが質素極まりないものであった。あわせて自分を宣伝しない性格でもあり、その生活ぶりや性分は彼が残した石碑にも表われていると思う。
音次郎が残した石碑は、鎌倉に辞世の句碑が、郷里竹島に辞世の句碑・夢の碑・分骨された墓碑がある。
いずれも、いつ、誰が、何のために作ったのかの記載がなく、世間によく見かける石碑とは異なり、見る人には分からない。つまり、自分(音次郎)と相手(松、神様、父母)だけに分かればよい物としているのである。
とりわけ夢の碑については日誌などへの音次郎の記述は無く、唯一、乾綾雄氏(音次郎の長兄卯太郎の娘寅野の子。8才から24才まで音次郎の下で過ごした)が書いた「高知県人」誌の「音次郎の碑を尋ねて」に母寅野から聞いた話として次のようにある。
――土佐での療養生活――
音次郎にとって明治32年は心身ともに疲労困憊の年であった。医院としての業務もさることながら、収容児は次第にその数を増し、糧を得るための「保育散」(歯磨き粉)の製造や販売も多忙をきわめた。その過激な生活の報いとして、翌33年月上旬には高熱を発し、次いで肺炎を起こし肋膜炎となった。だが病状はさらに進み肺尖カタルとなり、薬剤も静養も効果がなく、医師である自分でも回復は難しいと覚悟するようになった。
そこでしばらく世事とかけはなれたらよろしかろうと、妻のすすめもあり故郷の士佐へ転地静養せんと、その年の11月から翌年の4月まで長女里子(満4才2ヵ月)を連れての里帰りの生活が始まった。
療養生活は世事一切をうち忘れて単純な日であった。毎日里子や同年齢の姪のお供をして童謡を歌いながら近郊の田野を散策したり、機嫌の良い日には四万十川の流木を持ち帰り、離れ屋敷で杖を作りこれに彫刻をほどこすというものであった。
ある日のこと、いつものように顔を見せた家兄がふとした話のはずみに「音次郎よ、お前にしてやることは無いかね」と優しく問うてくれた。機を見るに敏な音次郎のことである。彼の脳裏から長い間離れなかったのは、竹島神社における神の恩愛に対する記念塔を建てることであった。彼はこの兄の慰めの言葉に深く陳謝しながら「夢の碑」の援助を懇請した。年を越え34年の春、彼は多年の念願をも果たし心身共に癒されて帰園した。
−乾寅野 談−
高知県人社発行 月刊 全国高知県人連絡誌「高知縣人」1994.1.1 第43巻 第1号 30pより引用
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