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四万十市竹島出身・郷土の偉人

TEL. 0880-33-0247

〒787-0155 高知県四万十市下田2211 若草園内

墓石の説明

墓石の写真  1965(昭和40)年11月、鎌倉保育園創立者佐竹音次郎の墓前祭のため、次女伸子と夫昇夫妻が中村市へ来た。この時、音次郎が遺言で生家の墓地に分骨して欲しいとの願いで建立されていた墓石を現在の物に置き換えたと思われます。

 鎌倉とは別に郷里の竹島にも音次郎の墓が出来た経緯は次の通りです。

 音次郎は1930(昭和5)年の兄卯太郎の死去の際に「自分が死んだら父母の側に眠らせてもらいたい」と集まっていた親族一同に願い出ます。そこで了承を得ると共に、市川石工を訪ねます。そこで自分の墓石の注文をしたと見られます。
 音次郎が亡くなった翌年1月16日に竹島への分骨はなされます。その時に昭和5年に注文しておいた墓石が置かれたのではないかと考えられます。つまり、この墓石は2代目のものとなります。

(このページの写真は全て、クリックすると拡大して見る事ができます)

墓石の大きさ ◆ 墓石のデータ
高さ    82cm(墓石、1段目32cm、2段目27cm、3段目24cm)
幅     31cm
奥行き   31cm(墓石、1段目46cm、2段目62cm、3段目91cm)
全体の高さ 165cm
材質     砂岩
設置場所 高知県四万十市竹島
     北緯: 32°97'04"61
     東経:132°97'01"01
設置時期 1966年(昭和41)?月

佐竹音次郎 仝(同)妻くま子 之墓墓石正面 音次郎 昭和十五年八月十六日永眠 享年七十七歳 くま子 昭和三十四年四月二十六日永眠 享年八十歳墓石左側側面
◆ 左側面の碑文
音次郎 昭和十五年 八月十六日 永眠
            享年七十七歳
くま子 昭和三十四年四月二十六日永眠
             享年八十歳

右側面の碑文アップ墓石右側側面 背面の子供らの名前を刻んだ文字のアップ墓石背面
◆ 右側面の碑文
音次郎は竹島に於て、父宮村源左ヱ門母佐雄の四男として元治元年五月十日に生まれ七
歳の時に佐竹家に養子となり明治二十六年医學専門學校を卒業し同二十七年相州
腰越に医院を開業翌年沖本忠三郎次女くま子と結婚す二十九年七月医院内に小児保
育院を設け三十九年神奈川県鎌倉に鎌倉保育園を建設して爾来夫婦協力して専心孤
児達の父母として永眠の際まで終生を子供達の爲に奉仕した
此の間旅順大連京城薹北北京等に支部を設置して異國の不幸な子供達にまで愛
の手をさし延べ、その保護を受けた者一萬二千餘名に及ぶ逝去に当り特旨を以って
従六位を賜る此度生家宮村家の墓地に分骨するに当りこれを記す

昭和四十年十一月六日 神奈川県鎌倉市 鎌倉保育園長 佐竹昇

備考:源左ヱ門⇒源左衛門、医學⇒医学、爲に⇒為に、薹北⇒台北、一萬⇒一万、餘名⇒余名

◆ 裏面の碑文
長  里子
次女 伸子
三女 花子
四女 愛子
長男 献太郎

◆ 父母の横に眠りたい
 遺言により竹島墓地に分骨された音次郎の墓ですが、2019年3月に生家宮村家の当主の逝去に伴い、12月頃、父宮村源左衛門の古い墓石と共に納骨堂は生家の敷地へと移転されました。

 下の写真は宮村家の納骨堂と並んであった頃の音次郎の墓です。

 今、音次郎の墓はここにひっそりと佇んでいます。ただ、ここから県道をはさみ一直線上には生家があり、この墓はまるで音次郎が生家を見守っているかのようです。

宮村家の納骨堂と並んでいた頃の音次郎の墓を宮村家の墓側から撮影した写真宮村家の納骨堂と並んでいた頃の音次郎の墓を宮村家の墓側から撮影した写真 宮村家の納骨堂と並んでいた頃の音次郎の墓を音次郎の墓側から撮影した写真宮村家の納骨堂と並んでいた頃の音次郎の墓を音次郎の墓側から撮影した写真

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保育の父・佐竹音次郎に学ぶ会
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かっこいい毛筆書体で音次郎会と書かれてあります。 題字:林 博氏